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江戸時代末期まで命脈を保った絵師の流派、雲谷派(うんこくは)の祖、等顔(とうがん。1547〜1618)は肥前の武士の子として生まれました。父の戦死に伴い毛利家に仕えて萩に移り、絵画を当地で多数描くことになります。
山口の地は雪舟(1420〜1506)が活動したこともあり、等顔も雪舟の画風を学び、自らも雪舟末流を名乗ります。当時、雲谷派の他にも雪舟に自らの絵
画の源流を位置付ける絵師がおり、雪舟の存在が当時から大きかったことが窺えます。 等顔は武士の子に生まれ、やがては絵師として活動しますが、彼のような来歴を持つ絵師は珍しくはありません。例えば、織田信長(1534〜82)に仕え、やがて信長に滅ぼされる荒木家の村重(1535〜86)の子と伝えられる岩佐又兵衛(1578〜1650)や、浅井家の家臣、海北家の一員、海北友松(かいほうゆう しょう。 1598〜1677)などが著名です。主家の興亡に伴い、絵師として生きることを選択することが可能であった、武士の教養の高さも物語っているようです。
左の絵画は、半身達磨(コラム「半身達磨」参照)です。後世、等顔の末裔らも同様の形式の達磨図を再生産していきます。
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