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東京禅センター第1回公開講座 NO.1

【 片手の音-禅の悟りとその教え 】安永 祖堂
平成17年4月16日

◆はじめに

 皆様こんにちは。只今御紹介に預かりました花園大学の安永祖堂と申します。
 しばらくお時間を頂戴して仏教、禅のお話を少しだけさせて頂きます。
 ご覧になってわかるようにいきなりお坊さんが登場しまして、なにやら法話会かお説教のような雰囲気になって申し訳ないですが、私はもともと研究、学問の世界の人間では御座いません。いわば宗旨の世界に居ましたからもっぱら伝統的な禅の修行をさせて頂きました。その後、後々触れさせていただきますと思いますが、外国の方々とご縁ができまして禅のお話を外国の方に向けてさせて頂いていました。その様なお話を色々とさせて頂くうちに、前の花園大学の学長をされておられました、西村恵信先生とご縁ができまして大学の方へ声をかけて頂きました。そして、現在花園大学の国際禅学科のスタッフの一員として日々勉強させて頂いております。

 今、大学を囲んでおります状況はご承知の通り、少子化の時代で厳しいものがあります。丁度こちらに参ります新幹線の中でちょっと評判になっております本があったので読みながらまいりました。『東大教授の通信簿―授業評価で見えてきた東京大学』、東大の石浦章一先生という方が書かれておられます。 「東京大学がどのような形で学生さんに向けて講義を行うか」という話を書いておられる訳なのです。どうすれば良い講義ができるかという所はまだ読んでいません。帰りの新幹線で読むつもりですので今日はあまり良い講義にはならないと思うのですが、その本の最初の方に「東京大学には色々なゼミナールがあるのだ」という話をされております。《100mをいかに早く走るかを学ぶ韋駄天ランナー養成ゼミ》東京大学さんは 色々なことをされるのですね。その次に《ひたすら坐禅を行う》坐禅ゼミというのが あるのだそうです。あるいは《生命科学と現在の禅》とか色々なものがあるですが、ここにあげたものはすべて例外なく学生からの評判が良いのだそうです。東京大学で《ひたすら坐禅を行う》坐禅ゼミの評判がいい、これもいささか興味深い現象だと思うのです。いってみればですね現在正直に申しますと伝統仏教の教団というのはいささか元気がないという評判なのです。

 私ども京都の方では京都にある大学がいろいろ集まりまして単位互換制度というのを用いております。どういう事かと申しますと、例えば関西の方の大学の例で申し訳ないのですが同志社大学の学生さんが立命館大学の先生の講義を一年間受けて単位をとれればその単位をその出身の同志社大学で認めるという試みがございます。京都の主だった大学がそれに参加しておりまして、京都で学ぶというメリットをぜひ活かしてもらおうと様々な大学がそれぞれの特色を持った講義を提供しております。
 同じような試みを東京の方でもされようとしたのだそうです。ところが東京ではこれが大学の数が多すぎる、あるいは広すぎるのでできない。名古屋はどうか?名古屋の大学でも同じことを試みたのですがこんどは規模が小さすぎてできない。ということで京都の方ではその試みが大変うまく作動しているのです。

 各大学がそれぞれの特色ある講義を提供する、ご承知のごとく宗教系、仏教系の大学が沢山ありますからそういう方面の講座もございますし、池坊短期大学さんなどはお茶とかお花とかそういう講義を提供される訳です。様々な講義がある中で毎年一番人気が高いのが私ども花園大学の提供しています《人と文化、禅》という講座なのです。希望が多すぎて、抽選で受講していただく学生さんを選んでいる状態です。ですから、伝統仏教の中で禅というのはやはり日本の文化の根底を占めるものではないかという様な興味を持っていただいて、そういう風に若い学生さんが興味を示してくださるのかもしれない。ところが、喜んでばかりはいられないのです。さきほど申しました京都の宗教系大学が集まりまして宗教系大学懇話会というものもつくっています。

 そこでは宗教系の大学の代表の方が集まって意見を交換するのですけれども、やはり悩みは現代の若い学生諸君がそれぞれの大学の建学の精神であります、例えば同志社大学さんでしたらキリスト教の精神、私どもでしたら禅の心。それからもちろん龍谷大学さん、大谷大学さんでしたら浄土真宗の教えという風になる訳ですが、そういう教えを提供する場に集まって来てくれない、こういう悩みがある訳です。だから一体若い人達はどういう風なことに興味があるのかそのあたりを読み取ってかれらに納得してもらうような形でお話をする、私どもが努力しなければいけないところだと考えております。

 今日はですね、拝見いたしますと一般の方々とお坊さんの方々と混じっておられますので、もしかすると寺院関係の方々にはそういうことは知っているぞというお話になるかもしれません。あるいは最近では、お寺さんよりも一般の方のほうが仏教のことをよくご存知ですからもしかするとそんな事はもう聞いたという事があるかもしれません。一応そういう時にはそういう理解の仕方もあるのかという風にお考え頂きたく思っております。

◆禅とは?

 今日お配りいたしました、形だけですけれども一応のレジュメを用意させて頂いております。原則としてはレジュメに従ってお話を進めさせて頂きたいと考えております。最初にまず先程から申しております若い人達が興味を持ってくれている様でもあり、様でもない、一体禅とは?禅とはどういったものなのか?から始めてまいりましょう。

 言葉から入って行きますと最初に【三学】という教えがあったのです。仏道を修行する者が必ず修めるべき三つの基本的な修行、その三学として戒律があり禅定があり智慧がある。そういうものがあったのです。戒律ということになりますと次回に佐々木閑先生がおみえになっていいお話をされると思いますのでここではとりあえず戒律という形で身体、口、意(心)でございますね、その三つの悪というものを止めてそうして善、良き事を修める。そういうような戒と律ですね。結局のところ戒と律というのは生活を整える、そういうところに尽きると思います。

 私どもはよく戒律、戒律と何気なく言っておりますけれども、戒と律というのは本来、別のものだそうです。昔、戒はしてはいけない事、律はしなければならない事と教えられましたけれども、戒というのは現代の日本語で言えば道徳にあたります。一方で律というのは法律にあたります。ですから仏道修行者が悟りへと至る際に心しておくべき事がいってみれば戒。その一方で仏道修行者は集団生活を行いますから、その集団生活を営んでいく上でのルールというのが律。ですから戒を破っても罰はないのですが、律を破ると罰がある。教団から追放されたり、教団の中で叱責をうけたりする。

 そのような身体、生活を整えてその次にどうするのか?それが禅定ということになる訳です。そこには心の散乱を防ぎ三昧を得るとありますね。昔の人は「意馬心猿」と言ったのだそうです。人間の意識というものは野生の馬の様に放っておくと何処に走っていくかわからない、心というものは野生の猿のようにジャングルの中でこちらの木からあちらの木へと次々と移って行く、そういう風な心というものを一つの所に止める、そこのところに禅定という言葉の意味がでてくるのだそうです。

 ですからその下に禅定ということでサンスクリット語dhyanaの音写である。そういう風に申し上げております。サンスクリット語というのはご承知のごとく梵語で御座いますけれども昔のインドの教養語です。サンというのはサンフランシスコのサン、サンタモニカのサンと同じですから聖なるということです。英語で言うとセイント。スクリットと申しますのはスクリプチャーという英語が御座いますけれども、書かれたものということで「聖なる言葉」というのが元々の意味だそうです。梵語とかサンスクリット語といきなり聞かされますと取っ付き難いかもしれませんが、仏教の言葉に使われましたので、私たちが日常知らない間にたくさんこのサンスクリットの言葉を使っています。

 例えばご主人のことを旦那さんといいますね。旦那さんというのは、これは元々仏教の言葉でダーナという言葉です。大体見当がおつきかと思いますがお寺の檀家さんという場合にもこの元々のダーナという言葉からきております。ですから、元々の意味はですね、物を提供してくれる人、施しを与えてくれる人、そういうことです。ですから、サンスクリットの言葉というのは先程も申したように印欧語族と申しまして英語とかドイツ語とかと同じ系統の言葉です。

 臓器移植などの時のドナーという言葉がございますね、臓器を提供する人をドナーと言いますね。このドナーと言う言葉と語源は一緒なのです。だから、「ドナー」「ダーナ」同じなのです。物を提供してくれる人というところから「ドナー」。旦那という様になりました。昔の中国の人達はインドの仏教の教えが書かれた経典を中国の言葉に翻訳しました。その時に二種類の方法を用いたのです。意味を翻訳する。あるいは音を翻訳する。そういった形をとりました。音をあてはめて似た発音の漢字をあてはめたのが「ダーナ」。それがいつの間にかご主人を意味する旦那さんになったそうです。ですから、私は大学の若い女の子にいうのですけれども、将来結婚してご亭主の稼ぎが悪かったら「あんた、旦那じゃないね」と言ってやりなさいというのですけれども。ですから、元々旦那というのはたくさん物を与えてくれる人ということです。

 その様なサンスクリットの言葉の中で先程申しました精神の安定と統一、心の散乱を防ぎ三昧を得るという「dhyana」という言葉がある、でその言葉に近い音を持って来たのが「禅」ということになる訳です。その意味をこの禅定の定というところにあらわして、禅定というこの言葉には定というのは「さだめる」と書きますがそれはどういうことかというと、それは心を一つの対象に集中させて安定させる。音を写せば「三昧」。何々三昧とよくいいますね。その様になる訳です。同じような言葉、よくヨガというのがございますが「ヨーガ」というのもこれも心を一つの対象に結ぶ、繋ぎ止めるという意味なんだそうです。

 これは一般的な言葉ではないのですが「ヨーガ」によく似た言葉で英語に「ヨーク」というのがあります。この英語の「ヨーク」はどういう意味というと牛を二頭並べた時にばらばらにならないように首の所にくび木というのを使いますね。木でつくられた。あれをいうのだそうです。ですから、くび木、あるいは束縛、絆その様な意味がこの「ヨーク」という言葉なのですがこれも「ヨーガ」と同じ語源なのだそうです。というところで最初にご理解頂きたいのは、よくいわれるところの「禅」というのは仏教の用語からきているものであるということです。

◆その特徴は?

 では、一体「禅」というものはどういうものか?ということでそこに一つのお話を提示してあります。どういう事かといいますと、この様なお話がありました。「世尊、昔、霊山会上に在って花を拈じて衆に示す。是の時、衆皆な黙然たり。惟だ迦葉尊者のみ破顔微笑す。」本当に申し訳ないのですがどうしても禅のお話をしますとこうした漢字が出てまいります。ですからおおよその内容を申し上げますとこういう事なのです。

 お釈迦様がおられて、ある時いつもの様に御説法をしようとしたと、そうするといつもは私の教えは・・・と語り始めるのに、その日に限って一本の花を手に持たれてスーとお弟子さん達の前にだした。お弟子さん方はその意味をよく解らないので黙っていたのに、ただ一人だけ迦葉尊者というお弟子さんがニッコリと微笑まれた。その微笑をご覧になってお釈迦様は、私の教えはこの迦葉尊者に今、伝わりましたと宣言されたというお話です。

 このお話が現在はそこにございます『無門関』と申します本に収められています。これは禅の問題集とお考えになってください。私ども禅宗には臨済宗と曹洞宗と黄檗宗と三つ宗派が現在ございます。道元禅師様の曹洞宗は「只管打坐」と申しまして、ひたすら坐禅をくまれるのですが私ども臨済宗の方は坐禅に加えて、問答というものを行います。師匠と弟子の間でこの様な昔から伝わっている問題を挟んで、やり取りをするわけなのです。

 このお話もその中の一つなのです。「世尊、昔、霊山会上に在って」というお話は、これは嘘なのです。つまり事実ではないということなのです。いきなりその様なことを言われて「エッ」と思われるかもしれませんけれども、このお話は元々『大梵天王問佛決疑経』というお経の中にあるのです。その中にある、たしかに書かれているのですがそこ以外には見つけることができないということです。つまり本当に歴史的な事実であったかどうかは、どうも怪しいということなのです。それはどういう事かといいますと、後からつくられたお経というものがある訳です。元々お経と申しますのはお釈迦様の教えを記録したものとなっていますが、後の時代に色々考えが分かれてまいりまして、お釈迦様はこうは言われなかったかもしれないというのも、お釈迦様だったらこう言ったに違いないと、そういうことで、自分の考えあるいは自分たちの考えをあたかもお経として、記録にとどめていく様になった訳なのです。そういうものも中国の人達は、これもお経だとで受け入れた訳なのです。或いは中国の人達が自分達の考えというものをお経に託して、つくったというのもある訳なのです。そういうのを偽経というのです。偽りのお経。疑われるお経。先程申しました『大梵天王問佛決疑経』はまさにそういうものだろう、つまり後々の時代につくられたのだろうということなのですね。

 では、どこでつくられたか?わかっています。どうも日本でつくられたらしいのです。日本人がつくったらしいのです。喜ぶべきか悲しむべきか・・・・どうも日本でつくられたのではないかということなのです。では、いまだにこの様な話を挟んで師匠と弟子が真剣に問答をしているというのは、そんな馬鹿なことはあるか、歴史的事実ではないのにと思われるかもしれません。しかし皆さん、事実と真実は違う訳なのですね。歴史的事実と宗教的真実もまた、違ってまいります。ですから我々が考えておりますのは、嘘をついてまで伝えたかった想いがあったのだろうということです。それはどういうことかというと結局のところ本当の仏の教えというのは紙に書かれたようなお経の言葉では伝わるものではないのだと、ニッコリ笑いあえる様な以心伝心、心と心で伝えあうものではないかという考え方です。

 俵万智さんという歌人が居られますけれども、良いことを言っておられます。「私は本当のことを伝えるためにはとことん嘘をつく。」と言っておられます。ですから、ここでも事実ではないのだから取るに足らないという様にはお考えにならないでいただきたい。この様にしてまで伝えたかった想いがあるということです。

 だから、禅というものは先程も申しました様に最初は体を整えて生活を整えて、そして坐禅という形になる訳ですが、心を一つの所にとどめて深い集中に入り、その深い集中が三昧という場になる。さらにそこから般若の智慧、物事の真実の姿が見えるその様な智慧に変わる、元々その様な教えだった。それが中国に入ってきてさらに実践的になってきたということです。

◆看話禅と聞話禅

 さらに時代がくだって来ますと後の時代の人達は具体的な修行の方法というのを考えようとなったのです。三番目にでておりますのを看話禅(かんなぜん)と読みます。その右側にありますのが聞話禅(もんなぜん)と読みます。この看話禅というのは私たちの現在の臨済宗のなかで、白隠慧鶴という方がもっぱら主張した立場、その様にお考えいただいたらと思います。その右側にあります聞話禅というのは、これはあまり一般的ではないでしょう。松岡正剛さんが言っておられる事なのです。どういうことかというと禅にも看話禅とか黙照禅とか色々呼び名があるのですけど、聞話禅は盤珪禅師の禅のことを言っている訳なのですね。こちらの龍雲寺様は盤珪禅師様と深いご縁がある訳なのです。そこでぜひ、盤珪禅師のことを少しここで申し上げておきたいのです。

 看話禅と聞話禅、そこから話を進めさせていただきたいと思います。漢字というのは面白いものですね。例えばですね、本当だったら一つで足りるのに中国の人は色々な漢字をつくった。例えば、私たちが何かを見るという時にもですね、ただ見るという動作を示すだけでも今思い付くだけでも、この様にこれも観るですね、これも診る、これも看るでございますよね。漢和辞典を見てみますと色々と「みる」という漢字が出てまいります。では、なぜそんなにたくさん種類があるのということになりますと、同じ「みる」でもそれぞれの漢字によって微妙に意味が異なっている訳なのです。

 例えばこの「見る」。一番代表的な「見る」。これはどういうことか。元々は上が目でございますよね。人間の目をあらわしている。そこに足をまげてひざまずいている。だからどちらかといいますとこの「見る」はひざまずいて何かをいただくというそういう意味をあらわすものです。また、こっちの方はニュアンスが変わってきて、私が何かを注意して意識して「視る」という時にはこの「視る」を使う。だから、同じ「みる」でもこっちの「見る」は向こうから視界に飛び込んで来る、そういうニュアンスの「みる」、こちらの「視る」はこちらから注意して「みる」。だから、視力検査、物事を注視するとかいうのでしょうね。この「看る」はどうかといいますと、目の上にこれは手ですね、だからこの「看る」というのは目の上に手を置いてみている様子。それをいっているのがこの「看」の「みる」ということになるのですね。

 よく禅のお寺では「看脚下」と木の札に書いて玄関に置いたりします。足元を見なさいということなのですね。足元をみなさい。でも自分の足元をみるのにわざわざこんなに手を使ってみる必要はございませんよね。すぐそこだから。この場合は自分が今まで歩いて来た道のり、これから歩いて行くであろう道のりをみなさいという様な意味を込めた「看脚下」です。だからただ履物を揃えなさいという意味ではない。それだけの意味ではない。自分はしっかり自分の二本の足で歩いて来たか、これからも歩いて行くのか、そういう意味を込めていっているのが「看脚下」。足元をみなさい。そういうことなのですね。ですからこの「看」というのは遥か遠くまで、ずーと見守るという所から看護婦、今は看護士さんですね。看護士さんの「かん」の字はこの「看」の字となるのでしょう。

 禅の言葉にはこのような漢字が勿論使われる訳ですが、使われている漢字に気をつけてくださいということなのです。目を使ってみるという事が分けられるならば耳を使って聞くという事も分けられるわけですね。対象が目の中に入ってくるのがこの「見る」ならば、対象が耳に入ってくるのがこちらの「聞く」です。こちらの方から注意してみる、きく時にはこちらの「聴く」を使うのだそうです。それはどう違うのかといいますと、例えば「おとずれ」、誰かが訪れるというそういう言葉があるでしょう。あれはまさに音を連れてくるのだそうです。ですから、門を通って耳に入ってくるということなのですね。おとずれ。「おとずれ」とはなにか?それは神の訪れなのだそうですね。

 禅の世界にはこういう言葉がございます。「聞声悟道、見色明心」つまり先程申しましたですね、戒律に従って、生活を整え、身体を整え姿勢を整え呼吸を整え深い三昧に入る。深い三昧に入った時に何らかの機縁、縁というものがあってそして般若の智慧というものに至る訳なのですが、その時には必ず何かを見たり、何かを聞いたり何かを鼻で嗅いだり、そういうことがある訳なのです。それは禅僧の伝記というものを読んでいきますと偉い禅僧というものは必ずそういうご自分の禅体験というものを告白しておられます。そのときには例えば、白隠禅師だったらば遠くの寺で聞こえてくる鐘の音、カラスの声、盤珪禅師でしたらば梅の花の臭いとかということをおっしゃるわけなのですが、この様なことをあらわす短い言葉が「聞声悟道、見色明心」。つまり「声を聞いて道を悟り色を見て心を明らかにする」という意味ですね。

 この「看」と「聞」、看話禅と聞話禅というのもいってみればその漢字に注目していただきたい訳なのです。この白隠慧鶴禅師と盤珪永琢禅師、同じ禅僧なのにそのお立場がまったく逆なのです。白隠禅師という方はどうであったか。宋朝禅以来の看話禅の伝統を受け継いで公案の分類と使用法を整備されました。教導法の確立によって法系が繁栄しました。独特の書画による一般教化もよく知られています。この書画は後でご専門にされておられます芳澤先生が懇切、丁寧にお話いただけると思うのですけれども、私はそちらは全然だめですので、公案のお話をさせていただきます。

◆ 公案

 「公案」という言葉は、「公府の案牘」と申しまして、公府というのは元々裁判所とかお役所とかそういった官庁という意味です。案牘というのは今でも日本語で使いますね、「案件」、何々の事案という案。その様に元々は法律用語、法制用語だったのだそうです。それを禅宗のお坊さんが自分達の言葉に利用した訳なのです。どういうことかと言いますと、例えば裁判官がですね、この被告はどの程度の罪に値するか、前例を調べようと、かつてこういうことを行った人物にはどの位の罰を与えたか。そういうことで前例を見るという事なのです。禅の指導者もこの修行者はどれ位の境地に至ったかということを過去の禅僧の言葉や振る舞いの記録で調べてみよう、比べてみようという風に裁判官があたかも判決を下すかの様に修行者が悟っているか、悟っていないかを決める。そのような形で禅の問答に使われる問題のことを公案という風に呼んだのだそうです。

 白隠慧鶴という方はもっぱら公案を使った禅というものを非常に重要視された訳です。その一方で盤珪禅師という方はむしろそういう形での禅の修行というものを完全に否定されておられるのです。わざわざ疑いを起こさせる必要はないだろうということなのです。そうではなくて、本来私たちが持っている仏心、仏性ですね、あるがままの心というものに従って生きていけばいいのだとその様に主張されたのです。不生禅というのですね。日常の一般の人達の話し言葉というものを使ってたくさんの人達にその教えを説いた。ですから、ある意味において盤珪禅師のお話というものを聞くという意味で「聞話禅」というのかもしれません。その一方で自分自身が修行するのだからその修行者はやはりその禅の問題に取り組まなければならない。そこで「看話禅」となるのかもしれません。どちらが正当派でどっちがそうでないのか。或いはどっちが良くてどっちが良くないのか。

 そういうことでもないのですね。一概には言えない。例えば白隠慧鶴禅師の禅というものはその様にきちんと教育のカリキュラムというものが完成されておりますから、そのカリキュラムに則って修行すればある程度の禅の境地というものを深めることができる。ただ、その一方で危険性も十分にある訳です。どういうことか?よく言われるのは梯子禅ということです。梯子を一段一段上っていくようなもので、禅のいう本来の仏性、仏心というものですね、そういうものに段階的に至るということはあり得ないだろう。或いは、鋳型禅。一つの型というのがございまして、そこへ無理やり修行者をすべて押し込めてしまう。そこから修行を始めさせるということです。そうではないであろうと。卑しくも禅の道に志すからにはその人その人なりの動機、疑問、悩みとかあるはずだから、その人その人に応じて導くべきであろうとなる訳なのですね。ですから、白隠慧鶴禅師の公案禅というのもやはり完璧なものとは言えないのであろう。それならば盤珪禅師の教えというものを聞いてそれに従っていればよいのかというとこれもやはり完璧という訳ではないのですね。よくこの不生禅というのに対して悪口で、盤珪禅師の無精禅というのです。無精ひげの無精です。そのままでいればいいのだから、本来の仏性のままでいるのだからということで何もしないということで不生禅。その様に悪口を言われるのですね。

 その辺りが非常に禅の難しいところなのですけれども、ではどちらが現在に残ったかといいますとこれは白隠禅師の禅ということになります。結局、盤珪禅師の禅というのは絶えてしまった。やはり、後継者を得ることが難しかったのでしょう。盤珪禅師という方は独特のカリスマ性というものに大変豊かだったのですけれども、後継者を育てるということに関してはやはり、しっかりしたカリキュラムを持っていただけに白隠禅の方が現代まで残っているということです。ですから、とにもかくにも現在まで禅というものは伝わっているのは、やはり白隠慧鶴という方の完成された公案体系、教育カリキュラムによるところがおおい。それは否定できないところなのです。

◆公案体系

 それでは、それは一体どういうものなのかというお話を少しさせていただきます。まず一番目に法身(ほっしん)、二番目に機関(きかん)、三番目に言詮(ごんせん)、四番目に難透(なんとう)、さらに向上(こうじょう)、六番目に五位(ごい)、十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)、さらに末後牢関(まつごのろうかん)とか最後一訣(さいごのいっけつ)というように大体の修行のカリキュラムというものは決められております。ですから禅の修業者は人によって多少の差はございますけれどもおよそ十年から十五年ほどかけてこのカリキュラムに則った修行を臨済宗の場合は行う訳なのですね。すべての禅僧が十年から十五年そういうことをしているかというと決してそれはできないわけなのですね。むしろそれは現実的ではない。そうすると、どの様になってくるかいうと大体このカリキュラムに則ったその縮小版ですね。そういうものを最低限の素養として身につけていただかなければ、ということで最初の法身とありますけれども、そこのところにですね、後にでてくるような機関とか言詮、悟りをどの様に働かせるのか、或いは悟りをどの様に言葉に表現するのかという風なことを、たしなみ程度ですが学ばせる、そういう形をとっているわけなのです。

 これは言ってみればあくまで人工的な手段ですから、この公案というものは元々存在しなかったものです。なぜできたのか。中国の唐の時代の天才的な禅僧たちは、自らの宗教体験をきちんと自らなりに得ることができた訳ですが、後の時代の指導者たちの興味というのは、その境地に至るにはどうしたいいかということなのです。だから、一口に禅と申しましても、唐の時代の禅と宋の時代の禅とはとても同じ禅とは思えない違いがあるわけなのですね。これは禅宗史のお話になってしまうのでしょうけれども、言ってみれば中国の漢民族、民族のうねりの様なものなのですね。漢詩、皆さんご存知だと思いますが、漢詩を考えればやはりそうなのですね。李杜、翰白といわれるような天才的な唐の時代の詩人達が現れた時代に続いて、後の宋の時代の詩はどうも理屈ぽくっていけない。あまり好まれませんね。唐詩選にあるような詩というものが素晴らしいのであって、後の時代の宋になりますと詩論、詩を論ずる、論書のほうが盛んにだされる。巌滄浪の『滄浪詩話』のようなものですね。それと同じなのです。唐の時代には禅僧たちも天才的な禅僧といわれる方が次から次へと輩出されたわけです。後の宋の時代になりますとその様な境地に至るにはどうすれば良いのか、或いはこの教えはどの様に違うのかという様なことを一生懸命やっていた。そこから、唐の時代の禅と宋の時代の禅の違いがでてくる訳なのです。

 白隠禅師の公案体系の場合は、言ってみれば唐の時代の禅というのが水滴のような自然の「まる」とすれば、宋の時代の公案禅、白隠慧鶴禅師の禅というのは限りなく自然な円に近いような人工の多角形だと考えていただいたらいいと思います。つまり、唐の時代の禅では悟りというのは自然の「まる」。その一方で宋の後の時代の禅僧たちの悟りというのは、やはり人工的なものですから、限りなく円に近い無限の多角形ということなのですね。ですから、この公案体系というものも本来はそうあってはいけないのですが、修行者の境地を少しずつ三角形から四角形に、四角形から五角形に、五角形から六角形、七角・・と無限にこの円に近づけていくような、そういう風な修行という側面があることは否定できないところなのですね。公案、禅の問題というものに関しますと、とても一時間や二時間では論じることができないのですけれども、例えばこの円というものが非常に公案の修行というものを象徴するのですね。「ウロボロス」というものがございますけれども、錬金術のシンボルで自分の尻尾を噛んでいる蛇の図があるのですね。あの「ウロボロス」と同じなのですね。禅の修行というのは、例えば公案の修行というものがここから始まってぐるりと回って、元に帰るという。そういった面があるわけなのですね。ですから決して梯子のように直線のものではないのです。円なのです。その様にお考えいただいたらと思うわけなのです。

 或いは別の方法で考えてみますと、これはですね先程も申しましたように人工的な手段ですから言ってみれば、水泳の飛び込みの選手が、プールにポーンと飛び込む際に踏み台にするようなステップボードですね。あのステップボードとお考えいただいたらどうでしょうか。ですから、悟りへと至るためにやはり踏み台が必要なのです。ポーンと跳躍するためにですね。その踏み台、言ってみれば公案がその役割を果たしていると。その様にお考えいただいてもよろしいかと思うのですね。

◆ 入室参禅について

 次は入室参禅(にっしつさんぜん)と読みます。お師匠さんの部屋に入って、禅に参じるというわけです。これは現在の私たちが馴染んでおります、仏道・芸道・武道ですね。書道もそうですね、それから華道もそうです。もちろんお茶の茶道もそうですね。それから、剣道でも柔道でもよろしいかと思うのですけれども、そのような場合に特徴があるのです。それは何かというと、それぞれの道を極めるためには、必ず'型'を反復しているのです。お手前なんかそうですよね。'型'というものを繰り返し繰り返し習わせる。ですから、ある意味、日本の伝統の一つ、それは型の反復である。そういうことが言えるのじゃないのでしょうか。その'型'の反復というものは、公案体系にあっても、正にそうなのです。さっき申しましたように、十年から十五年の時間をかけて、これはその法系によって数え方も違う訳ですけれども、七百問から八百問、多いところですともっと、千問を超えるたくさんの問題があるのですけれども、似たようなパターンの問題というのは、沢山あるわけなのです。これは、どういうことかというと'型'を反復させているのです。しかし、このカリキュラムは上手く出来ていますから、その型通りにやっていればいいのかというと、こんどはそれを破るような問題があるのですけれども、禅の修行というのも、まず、その'型'を反復させている訳なのですね。

 そして、人間の'心'にその反復を学ばせるか、あるいは、人間の体にその反復を学ばせるかで、臨済禅と曹洞禅の違いがある訳なのです。つまり、臨済宗の場合には、人間の心の反復というものを一生懸命にさせる。心に重きを置くということですね。一方で、曹洞宗の場合には、'体'です。だから、永平寺さんとか、総持寺さんとかに行かれますと、実に修行僧の方の一挙手一投足が、美しいのです。どこで左足を出してどこで右手を下ろしてと言うのが、全部、決められているのです。よく言われますよね。お手洗いの作法まで決まっている。顔の洗い方も決まっている。これは、'型'ですね。体をその型にいれるのです。仏ならばこの型のように動くのだから、この型のように動きなさい。その生活を一生続けてれば、あなたも仏なのだという考え方なのですね。ですから曹洞宗の場合には体から入る。臨済宗の場合は心を重んじる。どちらも一緒なのですよ、禅なのだから。心身一如というでしょう。その方法論の違いが、臨済と曹洞の禅の違いを分ける一つの側面になっているわけなのですね。この'型'というのはですね、最近非常に見直されているわけなのです。

 私たちはこの'型'の大切さというものをだんだん忘れていっているのですね。私も職業柄、他の大学の先生がどういう授業をしているのかというのを、参考のために色々調べるのです。それで今一番面白いなと思っているのは、江戸川大学の平山満紀先生なのですけれども、面白い講義をされているのですね。講義のテーマが、「日本の文化と身体の型」ですね。で、その平山先生がどういう授業をしているかというと、内容紹介は「日本の身体文化の実習を通して体全体で学ぶワークショップ形式の授業。日本の伝統的な身体文化は、精緻に型が決まっていて型のパフォーマンスの美が追求されること。高度にノンバーバルコミュニケーション、言葉を使わない意思のやり取り。ノンバーバルコミュニケーションが発達して、言葉を介さずに以心伝心を達すること。腰・腹に重心があること。呼吸と間合いが重視されていることなどで特徴がある。」となっています。まるで禅そのものですね。この次に、これらを学ぶために茶道・礼法・能楽、さらに若い人が受ける講義ですから、ロックソーランというものをやるのだそうです。今ソーラン節をいろいろ使った祭りというのがあるのだそうです。なぜこのヨサコイソーランとか、ロックソーランを使うのかというと、あの踊りというのは腰が上手く使えていないと踊れないのだそうです。現在でも日本の禅の修業道場で悩みの一つは、道場に入ってくる若い人達が直ぐ腰を痛めるということなのだそうです。坐禅も組めない。坐禅どころか正座もできない、正座どころか畳に座ることができない。直ぐに坐骨神経痛とか、椎間板ヘルニアになってしまう。生活形態が洋風に変わったから仕方ないのでしょうけれども。

 腰・腹文化をもう一回見直そうという講義をされているんですね。最近ですと明治大学の斉藤孝先生もしきりに腰の大切さ腹の大切さ音読の大切さを主張されています。、そういうことは言ってみれば禅寺では昔からやっていたことなのですね。そういうものを見直すということで、一つのきっかけになると思うのですけれども、もともとは臨済禅の場合には'型'の反復を心で学ばせていたということなのです。では禅というものは結局宗教ではなくお華と一緒か、お茶と一緒かとなるとこれはまた違うのです。どういうことかと言いますと、その下を見ていただきますと、「量質転化」という言葉がございますね。これはもともと哲学の用語なのだそうですけれども、量は質に代わるという主張なのだそうです。わかりにくいのですが、一番手っ取り早くご理解いただくためには、自転車の練習を考えていただければいいのです。

 皆様方が子供のときに一生懸命に自転車に乗る練習をしたと思うのですね。いつ乗れるようになったか、覚えておられます?最初はあの小さい自転車の脇に補助輪みたいなものを付けますよね。あるいはお父さんとか友達が後ろの荷台のところを持ってくれて、そして一生懸命練習するわけじゃないですか。で、一週間二週間練習していつ乗れるようになったか覚えておられます?覚えておられないでしょう。なぜ乗れるようになったか、なかなか思い出せませんよね。それと同じなのだそうです。一ヶ月二ヶ月という量というものが質に代わる、つまり乗れるようになる。それがつまり量が質に変わるということなのだそうですね。で、禅の'型'の訓練も同じ側面があるのですね。つまり'型'にしたがって量をこなしていけば、十問・二十問・三十問という公案の修行というものをしていけば、その量が質に代わるということなのです。おそらく白隠禅師はそこまでは意識していなかったのでしょうけども、量が質に代わると、凡夫という量が、仏いう質に代わりうるわけなのですね。いったん代われば、いったん自転車に乗れるようになったならば、もう次に乗ったら乗れなくなっちゃったということは、まずないでしょう。それを言うのが「不可逆地点」ということです。ですから、ある日ふと乗れるようになった。そういう体験なのですね。それを宗教の世界に使っているのが、'型'と量質転化という話になるわけなのです。

 自転車の話が出ましたけれども、最近も宗教がらみで非常に残念な事件が起こっている。これは何故かと言いますと、原因は明らかなのですね。教育の場で宗教というものを取り上げないからですね。宗教といっても、けっして仏教を或いはキリスト教を特定の宗教を学んでいただきたいというのではなくて、宗教そのものを教え学ぶ機会が必要であろう。そういうことなんじゃないかと思うのですね。何にも教えてくれないから、免疫も何にもないから、宗教なのかそうでないのかがわからない。だからプラプラっと入信してしまう。学んだ上で自分には宗教は必要がないと結論を出すのは、それは大いに結構なのですね。だから教育の場で宗教というものはもう少し、教え学ぶ機会が必要になってくる。そうでないとこれからも同じような事件がいっぱい起こるでしょう。これからどんどん国際的な活躍の場というのは広がってくるのですけれども、こういうことがあるのですよ。


 イスラム教の人達は、こう言うのです。人間と動物の違いは宗教を持っているか、持っていないかの違いだ。そういう風に生活と宗教というのは密着しているのです。善し悪しは別といたしまして。そういう彼らから見ますと、「私は無宗教です」というのは人間じゃないわけなのです。だから「日本人なんてあれは人間じゃない」、そういうことになるわけなのですね。日本の考え方と世界の色々な国の考え方、そういう風に違ってくる。だから特定の宗派の教えを学ぶのではなくして、宗教はやはり、入信する、しない、ということとは関係なく宗教はどういうものかということを、もう少し勉強する必要があると思いますね。で、その自転車の話になりますけれども、これを中沢新一先生は非常に面白く譬えて言っておられるのです。

 宗教を持つ人と持たない人の違いというのは、ちょうど自転車の練習をするようなものだというのですね。どういうことかというと、最初、お父さんと自転車の練習をするときに、「ちゃんと持っていてあげるから、心配しなくていいのだよ。ほら、走ってごらん。」といって、後ろからタッタッタッタッとついて来てくれますよね。で、それを繰り返していくうちに、そのうちお父さんはどうします?「ちゃんと持っていてあげるから」と言いながら、手をそえるふりをして持たないんのですよ。そうすると子供は、持ってくれているからと思って一生懸命に踏むと。で、そのうちに手をサッと離す訳ですね。そうすると、子供は一人で運転できる。結局ですね、宗教というのはこれなのだそうです。持ってもらっているのではないのだけれども、自分の力で走っているのだけれども、ちゃんと持っていてもらっているからという、そういう自分を超えた大きな力を感じるか、感じないかの違いなのだそうです。そういうところが、言ってみれば、宗教を持つ人と、持たない人の違いだ。なかなか、上手く例えておられると思うのです。ですから、良い・悪いではなくしてやはり、宗教というものについて勉強しなおす機会があってもいいと思います。

 その次にありますのは、「淮南子」と申しまして、中国の古典なのですが、その中にこういう諺があるのだそうですね。(鳥の将に来たらんとするあらば、羅を張りて之を持つも、鳥を得る者は、羅の一目なり)と読むのだそうです。これはどういうことか、今は法律で禁止されているのでしょうけれども、霞網(かすみあみ)というのがございますね。羅というのは、あの霞網のことなのだそうです。つまり、中国の昔のお百姓さん、農家の方が、鳥を捕まえるという時に林の入り口に、この網を張る。そして飛んで来る鳥を待つのだけれども、たまたま霞網に一羽の鳥がかかった。そうすると、ではそこだけかかるのだから、このマスだけそこに置いておけば鳥がかかるのか、そうではないだろうということです。そうではなくて、たくさんこういう風に網の目がある中のそこに一羽かかるということなのです。これはどういうことかというと、無駄なものは何もないということなのです。つまりそういうものの中の一つにかかる、それでいいのだ、ということを言っている訳なのです。公案もそうなのですね。全ての公案が解決、回答できたからといって悟れるというのではない。その逆に、たったの一つの問題を解決しただけで悟りにいたるということがあるのですね。では他の公案は必要ないかというと、そうではない。やっぱりそれは必要なのだということなのですね。この古則公案の体系というのは、大変にうまくできているのですが、ではこれを全て解決すれば、それで悟るということは、これ以上がんばって修行する必要は無いのかというと、これもそうではないのです。

 最後に一つだけあるエピソードをお話して私の話を終わらせます。静岡県に臨済寺というお寺がございまして、そこに倉内松堂老師という方がおられたのですね。私事ですけれども、私の叔父と倉内松堂老師は共に、京都の南禅寺で、修行されていたのですが、その倉内松堂老師がこういう話をされておられるのですね。ちょうど自分が南禅寺から東京の八王子の廣園寺へ移って一通りの白隠禅師の定められた公案の修行が終わったのだそうです。そういうことがやはり人に知れると、当時、ちょうど戦争中だったのだそうですけども、色んなところの坐禅会とか、練成会とかに呼ばれるのだそうです。で、一生懸命に禅の話をする。ところが、自分が禅の話をすればするほど、自分は本当のところが解ってないということに、気づき始めたのだそうです。人を前にして嘘は吐けないということが解ってきたのだそうです。そして、自分にも嘘が吐けないという風になってきた。ついには、人前に出て、偉そうに禅の話をすることが出来ない。そうなってしまったのだそうです。

 鬱々と時間を過ごしておられる。そういうある日に、空襲がだんだん激しくなってまいりまして、静岡の臨済寺の近くにも爆撃がやって来るようになった。ある時、あん摩さんに来てもらって、マッサージをしてもらったのだそうです。そうすると、そこに一人の信者さんが来られてその信者さんと一緒にあん摩をしてもらっていた。ところが、その信者さんというのが、伝統的な修行というのはそんなに経験してないけれども、々お家を破産にいたらしめたりして、いろいろとご苦労されて、倉内老師はひょっとして、この信者さんのほうが禅の修行者が見るべきものを見ているなあと感じていた。力のある人だったのですね。そして、その二人がいるところにちょうどB―29がやってきて、焼夷弾を落としたそうなのです。ボカーンと爆発した。その爆発したときに、その信者さんが'一仏成道観見法界'、仏さまがこの宇宙を見渡せば、そのまま全ては成仏しているのだというふうな言葉がある。それを言われたのだそうです。「まさにそうですね」と言われたとたんに倉内松堂老師は悟ったのだそうです。

 その時に何を悟ったのかというと、その時に初めて自分が今まで二十年かけて修行してきた公案の意味が分かったと、つまり、そのときに倉内老師のお悟りは、人工的な多角形から完全な円になったわけです。分かります?ですから、禅のおもしろさというのはそういうところにあるのですね。一生懸命に二十年修行していても、限りなく円に近いかもしれないけれども、本当の円じゃないというところがある、その代わりに、たったそれだけのことで、自然の円のお悟りに至ることもあるということなのですね。そういう風なことを考えていきますと、私たちがかかわっております禅の世界というのは、実にさまざまなまさに多面体、プリズムのような局面を見せてくれると、そう思うわけなのです。大変冗長なお話になりましたけれども、これから本学のさまざまな優れた先生方がこられまして、いろんな方面から禅のお話をされるとおもいます。今日はほんの前座話でございます。、御静聴いただきまして、大変にありがとうございました。(一同拍手)

▼質疑応答

Q まったく素人で単純なことをお伺いしたいのですけれども、今日の題名にあります、'片手で拍手をする'どうやったら片手で拍手するのだ、ということで教わったら帰って来て教えてほしいと言われていますので、今日は先生のお話がございませんので質問ということで、お願いします。

A この片手でする拍手というのは私がつけたタイトルではございません。大学の学科主任の曹洞宗のお坊さんである中尾先生というかたがおられますけれども、その中尾先生がおつけになられました。いかにも曹洞宗のお坊さんがつけそうなタイトルなのですが、さっき申しました白隠慧鶴禅師の禅の公案でございますね。禅の問題の中に、右手と左手をパチーンとあわせると音がする。でも片手だけだったらどんな音がするのかと、そういう問題がございまして、それを修行者たちは一生懸命に片手の音を聞いて来いといわれてですね、坐禅をくんでがんばって修行するのです。そして、最初のうちは、右手と左手、右手だけの音、片手の音と、いろいろ考えるわけです。考えさせるのが公案の目的のひとつなのですね。考えても考えてもダメというところに追い込むのが公案の特徴なのです。だから色々言いますよ。片手の音、ヒュッ、とか、片手の音とは、無の音です、空です、とか色々言うのです。片手の音は宇宙の音です、鳥の声、すずめの声、カラスの声、みんな片手の音です、色々いうのです、普通のいわゆる問答とちがって、禅の場合、指導者の務めというのは待つことです。だからヒントは一切与えません。それではない、違う、いや、違う、全部奪ってしまうのですね。そうじゃない、そうじゃない、それではない、そうすると追い込まれていくわけなのですね。修行者のほうは。それを待っているわけなのですね。自分の理性とか知識とかがをまったく役に立たなくなるまで追い込むわけなのです。それが眼目なのですね。で、そういうふうな世界に入っていきますと、自分と片手の音が一つになってくるわけです。というのは、その片手の音というのは難しい言葉ですが、'隻手'というのですね。隻というのは隻眼というあの隻なんですけど、二年三年たちますともう、片手の音、隻手、隻手、隻手って何、隻手って何、というふうになってくる。そうしますと、朝、僧堂の朝というのは早いのですけど、三時半くらいに起きるのですね、おきたら途端に隻手と唱えるのです。自分の全存在をその片手の音に投げ込むわけなのです。だから、歩くのも走るのもご飯を食べるのも、安永が食べるのではなくて、隻手が食べるのです。隻手が歩いて、隻手がお手洗いに行く、そういうふうに追い込むわけなのです。自分とその隻手とが一つになっていく、三昧というものがさっきありましたね、その三昧が何かのきっかけで爆発するのです、そのときに聞こえるのが片手の音なのです。分かりましたか?分かったような分からないような話で申し訳ないですけれども・・・

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Q 最後のところでですね、悟りを開かれた倉内老師のところで、一仏成道・・・というのがありましたけれども、その大体の意味を教えて頂けますでしょうか?

A 有名な言葉ですからどこでも調べていただけるのですけれども、'一仏成道観見法界山川草木悉皆成仏'ですね。一人が仏道というものを成就して、そして、この宇宙というものを見渡してみれば、山も川も草も木もすべてのものはちゃんともともと仏であったではないか、そういうことなのですね。

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Q 大変簡単な質問なのですけれども、仏教では仏様という仏性というのは山川草木でもそうですけれども自然のあらゆるものにあると、かえるにもあるし、石にもあるし、埃にもあるんだというふうに言われていながら、趙州和尚ですか、狗子に仏性有りやなしや・・・とどう結びつくのですか?

A 特に中国とか日本にきて発展した考えですね、すべての生きとし生けるもの、さらには、石ころにまで仏性があるという考え方ですね。これはジョークなのですけれども、趙州和尚に修行僧が尋ねたのだそうです。犬に仏としての仏性が有りますか?と、趙州和尚はそのとき、うーむ、と考えたのだそうです。お分かりになります? 有か無かです。つまり、あるといわれたときと無いと言われた時と、両方あるのです。さっき申しました公案のカリキュラムの中には、最初おっしゃられたように、その州云わく、無、というのを解決しなさい、というのですが、それが解決できたら、州云わく、有、ある、というのを答えなさい。そういうふうにもう尋ねられるわけです。ですから、この場合のあるとないというのは、ここにマイクがある、マイクがない、というそういうあるないの無ではない。有と無を超えている無だと、そういうふうによく言われるわけなのですけれど、この話になりますと、また長いのですが、ですから、ただ、仏性はありませんよ、という意味ではない、別のところでは仏性はあるよ、というふうにおっしゃっているのですね。分かります?(笑)これは難しいので、また別の機会に。

(司会)どうもありがとうございました。(一同拍手)

 

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