東京禅センター第5回公開講座 NO.10
| 【 上座仏教と大乗仏教 】 | 佐々木 閑 |
平成17年10月15日 |
◆ はじめに 佐々木です。前回来られた方のお顔が見えますね。初めての方もおられますから、まず、前回までのあらすじを簡単にお話して、大乗仏教という大きな世界に突入していきましょう。今から約三千年くらい前に、インドという国には既にインド人が住んでいたのですが、そこに、山を越えて新しい民族が侵入してきた、という話でしたね。ここは、この間地震があった場所です。山岳地帯、大変多くの人が亡くなりました。ビン・ラディンも死んだとかいう情報も流れていますね。ともかく、あの山岳地帯はニュースを見てお分かりの通り、かなりの山岳でしょう?しかし、インドへ入るためには、あそこが一番低い場所です。 ここは全部ヒマラヤですので、八千メートル級です。この間、中国がエベレストを測ったら、8,844メートルだったようです。僕ら8,848メートルと習っていました。4メートル縮んだのだそうです。あれはきっと登山隊が登って削ったのではないかと思いますが。まあそれはともかく、ここは通れない。それで、インドに入る唯一、陸の道というのが、地震のあった地帯ですから、かなりの山を越えます。ここへ約三千年前に新しい民族であるアーリヤ人が侵入してきたわけです。「アーリア」の意味は「聖なる民族」で、生まれ故郷はよく分かっていません。一説によると、中央アジアの辺りだと言われていますが、ハッキリわかってはいないのです。 ◆アーリア民族の世界侵略 このアーリヤ人と呼ばれる民族が一斉に、東にも西にも、下にも侵略を開始するわけです。どうしてこんな強かったのでしょうね。何か特別な戦術を使っていたのか、あるいは、特別な武器を発明したのか、よく分かっていません。ともかく、その他の民族を押しのけて、東はインドへ、西はヨーロッパへ行って、ヨーロッパ人になりました。だから今のドイツ人もフランス人もイタリア人も、ヨーロッパの人は全部アーリヤ人です。また、海を渡ってアメリカへ渡りましたからアメリカへ渡ったイギリス人、南アメリカへ渡ったスペイン人、どちらもヨーロッパ人ですから、アメリカに住んでいるのも全部アーリヤ人という事になります。 それから、下へ降りた人たちは今のイラン、イラク、アフガニスタン、それから、トルコの辺りまでのいわゆるペルシア文化ですが、これを作った人たちもアーリヤ人です。なんて凄い民族なのでしょう。今では地球の半分以上がアーリヤ人になっているわけです。ただし、今では血が薄まって、混ざり合っていますので、アーリヤ人と呼ばれる純粋な民族は我々には分かりません。おそらくアーリヤの血をひいているだろうというわけです。今のインド人の中にはヨーロッパ人と同じ顔をした人たちがたくさんいます。色は黒いけれども、とても美しいという女の人はアーリヤ人の系統だ、ということなのです。つまり、今のインド人、ペルシア人、ヨーロッパ人、アメリカ人、これはみんなアーリヤという一つの民族ということになっているわけです。 ◆アーリヤ人によるインドの人種差別 = カースト 当然それまでにも、インドには人が住んでいました。そこへアーリヤ人が侵入してきたわけですから、征服するアーリヤ人と、征服された現地の、もともと住んでいたインド人という二重構造になります。そうすると、当然それは差別社会になりますね。上の人間と下の人間という上下関係が出来るようになります。しかもアーリヤ人は白人ですから、肌の色は白っぽいのです。今のインド人は黒いと思っていたら大間違いで、インドの北の方へ行けば真っ白なインド人がたくさんいます。肌の色はとても白い。白人とほとんど一緒という人たちもいます。ですが、それまで住んでいた割と色の黒いインド人と、入ってきた色の白いアーリヤ人の二重構造になりますから、当然人種差別というのは肌の色で区別されることになります。 肌の色というか、人種の違う世界の中での人種差別というのはとてもきついものがありますね。例えばアメリカでは、黒人差別、ヒスパニック差別、あるいは、我々日本人だって一昔前のアメリカで大いに差別されましたね。イエローペリルなんて言われてね。イエローペリルというのは、要するに、黄色人種がアメリカにやってきて、アメリカをのっとってしまうのではないか、ということでひどい言われ方をしたことがあります。このように肌の色の違い、あるいは、人種による差別は強い差別構造を生み出します。その結果、インドでは世界でも例を見ない大きな差別構造、いわゆるカースト制度というものが生まれるのです。 ◆人間の価値は生まれで決まる カーストというのは、インド語ではありません。これはポルトガル語です。インド人は「カースト」とは言いません。インド語では、これは「ヴァルナ」と言います。意味はもうその通り、「色」という意味です。バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラ、四段階。それからその下にチャンダーラと呼ばれる不可触賤民という、非常に差別される一番下の人たち、おおよそこの五段階のカースト制度が生まれます。つまり、これはアーリヤ人が侵入してきたことによってインド全体に広まった大きな社会制度なわけです。 カースト制度は人間の生まれで決まります。努力では決まりません。だから、どのカーストの家に生まれたかによって、その人のカーストが一生決定されます。その後、どんなに頑張って勉強して、偉くなって、総理大臣になったって、下のカーストは下のカーストです。実際、今のインドの政治家の中には偉い人がたくさんいますが、その中では、カーストの下で生まれた方がたくさんいますよ。そのほうが頑張るからね、やっぱり。ハングリー精神で頑張ります。しかし、残念ながらどんなに頑張って偉くなってお金持ちになろうが、政治家になろうがカーストはカーストなのです。だから結婚するときには、同じカーストの女の人としか結婚できない、という非常に理不尽な制度ですが、今でも続いています。それが三千年前のアーリヤ人が入った時に出来たわけです。 ◆反カーストの宗教者「沙門」 このカースト制度に反対する立場の宗教家たちが現れました。その人たちの主張は唯一つ。人間の価値は生まれで決まらない、ということ。つまり、反カースト制度の立場に立ちます。生まれた後に、その人が何をどうするか、その人のやった行いがその人間を決めるのである、というふうに主張するわけです。インドで、その努力をする、という意味が「シュラマナ」ですね。シュラマナというのは、インドのことばで、「努力する人」、つまり、カースト制度に反対して、人間の価値は努力で決まる、というふうに主張した人たちは全部まとめてシュラマナと呼ばれたわけです。 この「シュラマナ」ということばはそのまま中国に移され、音写されて、「沙門」と呼ばれます。我々が普通、「沙門」と呼ぶことばは、この「沙」という字にも「門」という字にも何の意味もありません。これは、「シュラマナ」ということばの音を写した音写語です。努力する人、つまり、反バラモン党、反カースト制度の人たちは全部沙門です。したがって、仏教も沙門ですが、仏教以外にも沙門はたくさんいる、ということです。 例えば、今のインドには、ジャイナ教という別の宗教が生き残っていますが、このジャイナ教もれっきとした沙門宗教です。ですから、ジャイナ教もカーストを認めない、と言っていたのですが、今になってみたら、もうインドの世界の中に完全に組み込まれてしまって、ジャイナ=カーストというのを自分たちで作ってしまって、カースト制度に組み込まれてしまった。これは皮肉な話ですね。一方の仏教はインドではもう滅びています。今はありません。 ◆人間の価値は努力で決まる 今、インドにいる仏教徒というのは、戦後になって独立してから信者になった人たちばかりで、過去千年間、インドには仏教はなかったのです。千年前に滅びたのです。まあ、そのほうが良かったかな?仏教カーストなんて作られたらかなわないものね。カーストなんかに組み込まれるくらいなら、無くなったほうがまだましだったのか、というちょっと悲観的な考え方がありますけれども。ともかく、このシュラマナと呼ばれる人たちの中の一人として登場したのがお釈迦様です。だからお釈迦様はれっきとした沙門です。そして「人間の価値は努力で決まる」、ということを原則として唱えた人です。 この沙門たちの中にも色々な種類の沙門がいてね、努力する、というのだけれども、覚えておられますか。「片足男」とか。初めての人は僕が何を言っているのだか分からないでしょう?「片足男」とか「爪伸ばし男」とか「お腹に針刺す男」とか、要するに、僕が言っているのは何かを努力しなくてはいけないというのだけれども、「何を努力するのか、ということに関しては、人それぞれバラバラだったということ」です。人によっては、一生爪を切らないというのが努力だ、だから爪を切らない人間ほど偉いのだ、というふうに考えた。今から考えると、笑い話みたいですが、実際にいましたし、今でもいます。今でもインドにはたくさんいますよ。死ぬまで片足で立っている、すごい努力でしょう、そういう人たちもたくさんいる。 しかし、釈迦の考えた努力は本質的に違います。肉体には関係がない、肉体をいじめたってしょうがないので、体に関係する努力なんかはやめてしまいなさい、そんなものは無駄だ。全ての努力は精神に向かえ、というのです。心に向かう。では何をするのですか?簡単に言うとね、精神改造です。あるいは、精神改良と言ったらいいのかな。我々の心の中には、生まれ持っている、存在している、様々な悪い要素がある。例えば、人を憎んだり恨んだり、あるいは、ものを欲しがったり、道理の通らないことを言ったり、色々な事がある。これは人間が持って生まれた悪い心の要素です。その悪い要素を自分の力で取り除いて行く、ということ。これが、仏教でいうところの努力なのです。 ◆仏教修行の基本は精神集中による精神改造 ですから、仏教では、肉体を使った修行というものをほとんど認めません。野山を走ったりするのはダメです。確かにそういう方法で人間の心が磨かれるかもしれませんけれども、少なくともお釈迦様が本質的に考えた方法ではないということです。むしろそれは、山伏系統ですね。それから水浴びする。朝晩冷たい水場で水浴びをする。そうすると穢れが落ちる、と。それは、垢は落ちるけれども、心の穢れは全然落ちないのですね。水で洗ってもね。関係ないのです。というわけで、仏教の本質的な修行の形というのは、外から見ていると何もしていないように見える。肉体を動かさないから何もしていないように見える。寝ているように見えます。本当に寝ていると寝てしまうので、坐っていようか、ということで坐った。それで精神を集中する。 つまり、坐るというのは、精神は完全にリラックスさせて、それ以上何のストレスも感じない状態にしておくことです。そして肉体には一切触れるなということ。肉体に関しては一切何もしない。それで、全ての全エネルギーは精神に集中させる。自分の精神を集中させて、そして、何をするか、といったら、そこからが大事なのですね。精神を集中するだけだったら簡単で、誰でも出来ます。集中したそのパワーで、精神の力で自分の心そのものを改良していく、これは大変難しいことだと思います。その精神改造が仏教の本質なのです。そして、その精神改造には、大変時間と、努力がいります。お釈迦様は努力の人なのです。修行が努力なしで出来るのだったら、お釈迦様はいらないということになってしまいます。 ◆お釈迦様による出家の勧め 人間の価値はいかにその人が努力したかによる、というのだったら、お釈迦様が考えた修行は努力が必要なのです。では、その努力はどれくらい必要ですか、それは死ぬまでです。死んでもダメかもしれない。それは分かりません。運がよければ、その人生の間で完成するかもしれないけれど、それはわからない。分からないけれども、やらないことには始まらないからまずやろう、ということになります。その修行は一生をかけてやらなくてはいけないので、遊び半分や仕事のついでという訳にはいきません。昔のインドですから食べていくために、或いは家族を養うために、朝から晩まで必死で働いていました。そのような生活をしている人がそのついでに精神集中して自己改造という訳にはいきませんので、お釈迦様は、もしやる気のある人間がいたら自分の生活を捨てろ、そして全部の生活を修行に費やせとおっしゃいます。これは、お釈迦様自身が家を捨てて年がら年中、朝から晩まで修行して、ようやく仏になったので、君らも同じであるというわけです。したがって、修行に入りたい人は現在の生活を捨てるわけです。特に大事なのは生産活動を捨てる事で、お宝を捨てるのではない。よく仏教で出家するというのは無一物になることだとか、財産を全て売ってしまって出家することであるとよくいわれますが、正確ではありません。 昔の記録によると僧侶は結構財産のある人がいましたが、ただ自分で持っているわけにはいかないので出家してお坊さんになる時にその財産を家族とか親戚などに委託して残しておくのです。そして、お寺の中で必要になると頼んで物を買ってきてもらいます。わりと自由なのですね。だから仏教はけっして無一物の宗教ではないのです。よく勘違いされますが、捨てるのは財産ではなくて、時間を捨てるのです。生産活動に掛ける時間とエネルギーを全て捨ててしまうのです。そうしないと修行が出来ないのです。 ◆三衣・一鉢 生産活動を捨てた人間は頭を剃り三枚の衣を着て、一つの鉢を持ちます。つまり鉢のない人は坊さんではないのです。出家の作法のときに三枚の衣と鉢を持っていない人はそこでお坊さんになることを拒否される。お寺に入れてもらえない。それをどうしたら良いのかといわれたら、自分で用意してくださいという事になるのです。自分でご飯を作るという仕事を放棄したので、食べる方法がない。普通ならば死にます。しかしながらお釈迦様が始めた食べ方は鉢を一つ持って村から村、町から町を歩いてそこで余ったご飯をそこに入れてもらいなさい。どんなにまずいもの、半分腐ったようなものでもしょうがない。入れてもらったものは食べなさい。ご飯がほしいからといって朝から晩までたらたらと食べ物がたまるまで歩き回るのは修行の邪魔になるので、必ず午前中に済ませる。 午前中以外は修行の時間に使うので午後はご飯を集めるのには使ってはいけない。ご飯を貰えなかったらどうするのか?その日はご飯抜き。午前中にたくさん貰ったからといって明日の分を取っておくこともダメです。そのようなことをするとご飯に対する執着が出てくるからです。午前中に集めたものは、午前中に全て食べてしまう。もし余ったり食べきれないときは捨ててしまうのです。もったいないが捨ててしまうのです。そして生産活動を捨てて人から物をもらうための入れ物の鉢ですから、鉢のない人は坊さんではないのです。 ◆乞食は修行ではない お坊さんが口の中に入れてもいい、許されるものは、誰か他の人が鉢の中に入れてくれた物だけなのです。道端に落ちているものや、木になっている物、山に入り自分で木の実を食べるとか、畑で野菜を作ったり、いかにもお坊さんらしく思えるが、これは全て禁止です。これが乞食といわれる仏教の基本的な食べる方法です。檀家さんがご飯をたくさん作り、とても食べきれないので、お坊さんにも来て頂き、余り物では御座いますが食べていただけませんか、どうぞうちの客間で食べてください。これは食べて良いか悪いか?良いのです。原則を考えればすぐに解ります。原理原則はいかに修行に時間、エネルギーを使うかです。ですからエネルギーや時間を節約できる事ならば、仏教では良いのです。 乞食が偉いわけではないのです、これは修行ではありません。鉢を持って家を回るのは修行ではないのです。修行とは精神を集中した状態が修行であって、鉢を持って歩くのはご飯を貰っているだけということになります。禅宗では全ての所作、行住坐臥全てが修行だという考えですから、お手洗いを使うのも修行です。これは日本的な考えです。しかしインドでは修行というのは精神集中することで、坐禅をすることです。ご飯を集め回る時間さえもったいないのだというのです。信者さんに招待してもらえば時間の節約になるのです。それはいいのです。だからお坊さんが法事に来てご飯を出すというのは昔からインドにありました。また檀家さんが自分の家でご飯を作りお寺に持ってきてくれた。これもいいのです。お寺で皆でそれを分けて食べても良いですし、ファンがいてあのお坊さんにたべさせたいと指名されたお坊さんは、その食べ物を貰ってそれを食べてもいいのです。 ところが、仏教の法律を見ると、ファンを獲得することばかり一生懸命になって、すごく人気があるんだけれども、全然徳のないお坊さんが結構いたらしいですね。そういう人に対する言葉も一杯書いてあるのです。いくらファンがいたほうがいいからといって、ファンにおもねるようなことをしてはいけないと書いてあります。一緒に遊んではいけないとか、遊びの内容まで一杯書いてあります。サイコロしてはいけない。一緒に歌ってはいけない、花を摘んではいけないとか。今だったらカラオケ行くな、とかそういうことになるでしょうね。このように支持者がいて、支持者獲得のために色々と根回しをすることはいけないと書いてあります。 ◆修行と布教活動 聖と俗との間でバランスを取りながら、第一目標である修行にどれだけ時間をかけてエネルギーを使うか。これが仏教のお坊さんにとって最重要関心事であったのです。ただ、お坊さんは結婚できないので子供がいません。独身ですから新しいメンバーが入ってこないと仏教僧団は潰れてしまいます。常に新しい世代を受け入れるためには常に外に向かって仏教の教えを説かねばなりません。修行とは別ですが布教活動をすることが必要です。布教をすることによって2つの利点があります。1つは人を確保し仏教僧団を存続させていく。もう一つは布教活動によって尊敬の念を持ってもらい乞食した時にご飯をもらえる。この2つの利点があります。だからお坊さんは修行ばかりしている堅物でも困るのです。やはり人に対してきちんと話が出来る、そして人に仏教のよさを知ってもらうことが必要です。 想像してください。お坊さんがいます。頭をそり、黄色い衣3枚を着て、鉢を1つ持っています。本来は道端に落ちている布を縫い合わせて着るのです。汚い土の色をインド語で「カシャーヤ」といい、それが音写されて袈裟という言葉になりました。つまり袈裟とは汚い色の衣という意味です。では本当に汚い衣で過ごしていたかというと案外お釈迦様の頃は良い衣を着ていたみたいです。なぜならば、信者さんがくれるのならばもらっても良かったからなのです。お釈迦様が決めたのは、どうしても何も手に入らないときは拾って集めなさいと決め
たのです。そして衣を集めるのにこの当時一番簡単に手に入るのが死体捨て場でした。 インドでは大抵、死んだ人は森の中に持っていってポイと捨てていました。そのときに、裸で捨てるのは可愛そうだからというので、布で巻いて持ってゆきました。でもそれは、死体を包んだ衣ですから、いくらインドでも再利用はしませんでした。そこでみんな布を捨ててゆきます。お坊さんは死体置き場に行って、その衣を剥ぎ取って、縫い合わせて袈裟にしたわけです。考えてみてください、当時のインドで普通に道端を歩いて布なんて落ちていないですよ。今なら、布なんてどこにでもある当たり前のものですけどね。当時のインドでは最高級品です。ですから、死体置き場が唯一、最大の布の供給地であったはずです。それを使っても良いということです。しかしながら、信者さんがいてどうぞこの布をお使いくださいといったら、その布は貰ってもいいのです。そうすれば、修行のエネルギーを節約できるし、わざわざ恐い思いをして、死体置き場にいかなくてすむでしょう。布を剥ぎ取ろうとしたらまだ生きていたという話もあります。それ以来、お釈迦様がお決めになった規則は衣を取るときは、本当に死んでいることを確かめてからとらなければいけないということです。 ◆僧団の意味 鉢を持ち、三枚の衣を着て、そして集団で生活をします。ひとりで生活をすると無駄が多い。これも修行の邪魔になりますから、何人もの人が集まって、役割を分担して、出来るだけ沢山の修行時間とエネルギーを作るようにするのです。ですから、仏教は必ず最初から集団で暮らすべしと決められています。今の禅宗の僧堂の雲水さんの生活が、本来の仏教の姿を一番残しています。男の坊さんを比丘、女の坊さんを比丘尼といいますが、比丘僧団と比丘尼僧団はそれぞれ分かれて生活をしていたわけです。基本原理は単純なのです。つまり、出来るだけ生活の中から無駄な時間とエネルギーを取り去って最大限の努力を精神集中に向けよ。それによって、自分の精神を改造し精神の中の悪い部分を、全部取り除いてしまえ。そうすると、きれいな、真っ白なこころが残るということです。 良い心が残ると、その人間は悪いことをしなくなります。悪い行いをしなくなることで業の世界から逃れることが出来るのです。業はカルマといいますが、業を作ると年をとって病気になって死んでゆくという、この苦しい人生を何度でも繰り返さなければならなくなります。つまり、次に生まれて来ることが苦しみなのであって、その原因はすべて業にあるというのです。悪いことをしなくなるということによって、我々は業の繰り返しの世界に終止符を打つことができるわけです。考え方によっては、もうそれから先の人生はないということですから、物凄く絶望的な考え方ともいえるのですがね。その一方では、もう二度とこんな苦しい思いをしなくてもいいということにもなるわけです。 僕も若い時にはこれでお仕舞いは嫌だと思っていました。次はお金持ちの御曹司として生まれたかったなんて思っていたのです。でもね、これくらいの年になってくると、もう生きることが嫌になってくるわけです。もう一度これやるのか、なんてね。私もこれから病気になって死ぬわけですが、またこんな思いを繰り返すのか、なんて考えるわけです。終わりにしたいなあという気にもなってくる。何となく解るような感じがします。ともかく、そういう活動が仏教です。 ◆仏教のオリジナルな世界観 それでは、仏教が考えている世界とは何でしょうか。仏教では、我々のこの世界は、すべて原因と結果によって支配されていると考えます。後でお話しする大乗仏教はここのところが違ってくるので気をつけてください。今はお釈迦様時代のオリジナルな仏教の基本的な考え方です。世の中はすべて因果の法則で動いていると考えます。キリスト教は神様が法則性を決めて、後は自動的に動かしてくれる。しかし、神という存在がその上にあるというのが間違いのないところです。これは、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も全てそうです。しかし、仏教は違う。仏教はその法則性を作ったものなんてどこにもいません。つまり、絶対的な存在がいない。この法則性は自然に元々あるのです。そして、ある原因があれば、自動的にそれに応じた結果へと進んで行くのです。つまり、りんごを落とせば落ちるのです。 この考え方は、現在の科学的な世界観とピタリと合います。ただ、科学は物質世界の法則性を取り扱うものですが、仏教は物質世界のことは全然興味ありません。仏教は最初から人間の精神を問題にした領域ですから、精神構造のなかの因果関係しか考えません。外界の物質の因果関係は抽象的な概念即ち数学に置き換えて考えることが可能です。10グラムのものは10。その5倍のものは10の5で50という具合に、計量的にキチンとした基準で表すことが出来ますから、自然界の動きを数字の動きに置き換えることが可能です。数学を発達させることによって、自然科学というものが出来上がります。しかし、精神というものは定量的に推し量ることが出来ない。あなたは、私の3倍幸せです、と言ったって、本当のところは解らないわけです。3倍顔がほころんでいる、なんてね。精神の問題は定性的なものであって、定量的に表せないので、数学が適用できません。したがって、仏教が科学を発達させることは不可能です。仏教に科学を求めたって何も得られません。仏教の中から科学が生まれることは絶対にありません。 ◆人間・釈迦のジャングル脱出の喩え しかし、方法は一緒なのです。世の中は全て法則に基づいて動いているのです。その法則性は、仏様がいようが、神様がいようが、そんなものは何の関係もなく、淡々と進んでゆくものであるわけです。お釈迦様はどういう人なのか探検隊に喩えてお話します。探検隊がジャングルを探検しているうちに道に迷ってしまったとします。どんどんジャングルの中に入り込んでしまった。このままでは、全員餓死するか、獣に食われるか、どっちにしても助かる道がない。それを、今の世の中だと考えるわけです。その探検隊の中に、一人だけ頭が良くて、勇気があって、優れた人物がいた。この人をお釈迦様とします。注意することは、お釈迦様も探検隊の一員であって一緒になってジャングルの中で迷っているということです。他の隊員が「もう駄目だ」と言った時に。「待っていろ」と一人で行って、ついにその人の知力によってジャングルの脱出路が開けた。そのままサヨナラといって居なくなっちゃったら大変です。お釈迦様は道を引き返して「脱出路が見つかったから一緒に行こう」と言うわけです。 しかし、それを信じない隊員もいたり、一歩も動けない隊員もいるわけです。お釈迦様であってもそれをどうすることも出来ません。お釈迦様に出来ることはここをこうやって、ここをこう行きなさい、私の指示通りに行きなさい。私も一緒に行きましょう。遅れてやってくる人もいるし、お釈迦様と一緒に行く人も居るでしょう。しかし、道は確実に踏み固めてきているわけです。歩くのは隊員一人ひとりなのです。全員を背負って連れて行くわけには行かない。言う事を信じない人や動かない人はどうすることも出来ないわけです。 お釈迦様はあくまで人間です。道は見つけたけれども、全員を引っ張っていくことも出来ないし、ジャングルを消して見せたり、空飛ぶじゅうたんに乗せてジャングルからぱっと連れて行ったりする存在ではない。そして、そのジャングル全体を支配している神様がいる訳でもない。ジャングルとして存在しているだけなのです。だから、誰を恨むこともできません。キリスト教は神に感謝しているけれども、半分は恨んでいますね。「お前はもう地獄行きじゃ」なんていわれたらやっぱり恨みますよね。仏教には恨むべき対象はないのです。逆に言ったら、感謝すべき対象もないのですね。この頃よく、「生かされている私」という言葉を聞きますが、誰が生かしてくれているか考えると迷ってしまいます。むしろ、道を示して下さっているお釈迦様という人物に我々は感謝すべきです。 ◆お経と律 話を歴史的な問題に移します。現実に仏教の世界で何がインドで起こったのかという話から、大乗仏教に入ってゆきたいと思います。仏滅直後の第一結集、これは前にもお話したかと思いますがお釈迦様が亡くなった時に、それまでのお釈迦様の言葉をまとめておかなければいまに無くなってしまうだろうということでお弟子さんたちが集まってお釈迦様生前の言葉を皆が思い出して、それをまとめて皆で覚えたのです。何故書かなかったかというと、その当時はまだ字で書くという習慣、文化がインドに無かったので記憶するのは全部頭で記憶しなければならなかった。そこで500人のお坊さんが一箇所に集まってお釈迦様の生前の言葉を皆で覚え合ったわけです。これによってお釈迦様の言葉は保存されることになった。これを我々は「お経」そして「律」と呼びます。ですから「経」という名称が付いたものは全てお釈迦様が亡くなったその時にまとめられた言葉、というのが建て前で創られています。しかし、現実にはほとんど実際には残っていません。 歴史的に見た場合には、我々が何々経と呼ぶものは、ほとんど全て後の時代の人が創ったものです。特に大乗仏教のお経は全て後の時代の人が創ったものです。お釈迦様の言葉ではありません。後ほどお話しますが。こうしてともかくお釈迦様の言葉が経、律という二つの分類によって守られるようになり、その後仏教僧団は変わることなく、先程説明したような状態で修行者が集団で集まって修行する。そういう生活が百年続いたそうです。その頃になって、実は仏教僧団の中で争い事が起こりました。十事と呼ばれるものなのですが、十の生活の規則に関して、それ必ず守るべきだというグループと、少し緩和しようというグループに分かれて喧嘩がおこったのだそうです。実際には、この十の規則はほとんどが、どうでもいい事、くだらない事が多かったようです。 ◆上座部と大衆部 ただ、この十の規則の十番目だけはとても面白いことをいっております。それは、これまでの仏教では「お金をお坊さんが触ってはいけない」という規則がありました。しかし貨幣経済も進み檀家さんもお布施をお金で納めたいという人も出てきましたし、それを受けないのも困るので触ってもいいようにして下さいということでした。結局この十の問題全てをめぐって仏教僧団が二つに分かれてしまったのです。そして長老達が集まり最終的な協議の結果、十の事柄全て旧来どおり。絶対変えてはならないという事になったわけです。 ですから今でも厳密には、お坊さんはお金に触ってはならないのです。スリランカやタイのお坊さんは、こういった戒律はしっかり守っていますから、今でもお金に触りません。買い物も出来ません。どうするかというと檀家さんが横について来て買います。タイやスリランカの偉いお坊さんが街に出るときは必ず横にお付の檀家さんがいます。そして,お坊さんが欲しい物があると、「これを買え」という言葉もいけないので、それと無く合図します。そしてその買ったものを檀家さんはお布施としてお坊さんに納めます。ですからこの時の十事の問題はいまだに尾を引いている訳です。 このような事件が原因となって仏教は二つに分裂してしまいました。これが根本分裂という分裂で、上座部と大衆部の二つに分かれ、さらにそれが幾つかに分裂されていって、約20のグループに分裂してしまいました。これはインドの中での話ですが、この20のグループはその後ほとんど消滅してしまいました。しかし一つだけ生き残っています。それがスリランカやタイに存在している今の小乗仏教であります。上座部の枝分かれの中の一つが今のスリランカ、タイ、ミャンマー、ラオスの仏教です。その他の部派は皆消滅しました。 今の中国や日本はどうか。これはこの特定のグループが伝わったのではなくて、漠然とした形で仏教が中国に伝わりましたので、中国から日本に来たときにはこの中のどのグループの仏教ということにはなっていないのです。したがってこのグループの中の20のうち19はもう存在しないのです。ともかく大事なのはお釈迦様が亡くなって100年から200年くらいの間に仏教が細かく分裂したという事実です。これは歴史的に確認されています。 ◆
アショーカ王の登場 それからその同じ頃紀元前三世紀の中ごろですが、アショーカという王様が登場します。インド人にとってアショーカ王というのは、日本でいう大和武の尊や聖武天皇といった人たちと同じく、大変有名な歴史的人物であります。このアショーカ王は紀元前三世紀中ごろの人です。インドの歴史の中で、このように何年頃というふうに
時間が決められるのはこのアショーカ王の時代だけです。インドは全く年代を記録する習慣の無い国なので、何年に何が起こったのかなど全く解りません。お釈迦様が生まれた年、亡くなった年など全く解りません。唯一つ、このアショーカ王だけが解ります。何故かというとアショーカ王は自分の行ったことやその当時の様子を石に彫らせてインドの各地に石の柱にして残したのです。これはインドの各地に40箇所くらい残っております。アショーカ王碑文とよばれるものです。 これは1837年までは誰も読むことが出来ませんでした。それが1837年にイギリス人のプリンセップという人によって始めて解読されます。どのように解読したかというと、わりと単純なのです。地面の中からコインが出てきて、コインの表側には今のインド文字に近いもの、裏にはアショーカ王の彫った文字と同じ形の文字、同じ内容が裏表に出てきました。これによって初めて理解できたのです。これは劇的なことでした。そして、そのアショーカ王碑文の中に年代は書いていないのですが、「アショーカ王と同じ時代にギリシャには何々王、何々王様という5人の王様がいた」という記録がでてきます。ギリシャは全て年代の解る世界です。その5人の王様全員が王様であった時代を考えれば、わずか数十年の幅で年代が決まることになります。なんと、これがインドの古代の歴史の中で唯一つ年代が決まる事柄なのです。 お釈迦様の年代にしても、伝説がありまして、お釈迦様が何年に亡くなったなどとはどこにも書いていません。お釈迦様が亡くなってから百年経ってアショーカ王が即位したという事が書いてあるわけです。つまりインド人にとって重要なのは何年に何が起こったかではなくて、ある事件があって、それから何年たったら何が起きたかという継続の歴史だけが重要なのです。間隔の年代は記録が残っているのです。そうするとアショーカ王碑文の紀元前三世紀から100年さかのぼるとお釈迦様の時代という事になります。つまりインドの全ての歴史的事件の時代を決める唯一のスタート地点がこのアショーカ王碑文なのです。そしてアショーカ王は仏教の信者であった。これも碑文に書いてあります。この時代が仏教の分裂した時代と重なっているらしいのです。 ◆大乗仏教の成立 そこでちょうどこの仏教が分裂する時代と、それからアショーカ王が出てくる時代におそらくオーバーラップする形で大乗仏教という新しい仏教がインドに登場します。これは、先程私が申しました因果の世界での仏教とは本質的に違うものを中に含んでいる仏教です。むしろ私は全く別の宗教と考えたほうが良いと思うくらいです。まず大乗仏教の基本となる約束事、これは大乗仏教、小乗仏教を問はず、全ての仏教の約束事なのですが、そこにはこう書いてあります。この世界には一時に一人のブッダしか現れない。お釈迦様の時代にはお釈迦様だけがこの世の中の仏です。仏というのは同時に同じ世界に複数存在することはありません。 少し不思議に思いませんか?普段の仏教世界から考えたら仏様は山ほど居るのではないですか、となりますね。しかし、これが元々の約束事なのです。ブッダとは世の中の最高の人物であるから一人しか居ないのです。二番目の約束事として,あるブッダと次のブッダとの間にはブッダの存在しない時期があります。現在もそのよう
な時代です。先程も出ましたが、お釈迦様が81歳で亡くなりました。次のブッダは誰ですか?弥勒です。弥勒さんは今、何をしていますか?修行をしています。お釈迦様の次は弥勒菩薩ですね。では、今は、何なのか?たくさんいる仏さんは何なのか?続いて三番、我々がブッダになるためには前世で過去のブッダに出会い、その面前で誓いを立てなくてはならない。つまり誓願です。私も将来仏になりとう御座います、と過去に誓っている人間だけが仏になれます。これも約束事です。 ◆小乗仏教は阿羅漢を目指す この三つの原則は実は大乗仏教が起こる前に、小乗仏教の世界で決められた原則なのです。しかし、この原則を守ると我々は絶対に仏になることは出来ません。ですから小乗仏教の方は元々仏になることなど考えていないのです。スリランカのお坊さん達は仏になるために修行しているわけではない。つまり自分の力で悟るのではなくて、お釈迦様の教えに従っていく立場を覚悟しています。ですからスリランカのお坊さん達は悟った後に、仏にはなりません。仏ではなくて阿羅漢、つまり羅漢になります。これも悟った人なのですが、仏よりかは遥かにレベルが低いです。そうしますとこの約束事がある限り、我々は仏になることは出来ないということになります。 しかし時代の要請でやがて、出家して阿羅漢になればよいが、出家できない人はどうなるのだという考えが民衆の間で強くなっていきます。そして出家して阿羅漢になるのではなくて、そのまま仏になりたいという想いがだんだん強くなります。その中で現れるのが大乗仏教です。一、二、三は破ることは出来ません。このルールは守ってもらいます。このルールを守った上で我々が仏になるにはどのような世界を考えたらよいでしょうか。我々の住んでいる世界は一つのユニットとして存在している。しかしながらそれと全く同じ形態の世界が実は無限に宇宙には広がっている。むしろ宇宙がたくさんあると考えればよいのです。その数がい
くつあるかといいますと千の三乗あるといわれています。無限ということです。 先の三つの規則は一つずつの世界に適応できますから、ある時に一人のブッダしか現れないが、世界が無限にあるのだから、今仏が現れている世界がどこかにあるはずです。その仏の現れている世界に行くことが出来れば我々はそこで自分自身が仏になるという保障を得ることが出来る。ではその世界にどうやって行けばよいのか、自分の力では無理です。仏の力を借りなければならない。つまり仏の側の力を常に受け取らなければ我々は仏に会う事は出来ない訳です。二つ方法があります。一つは、仏様にお願いする事によってここまで来てもらって、この世で会うことが出来ます。一方では、仏さんに連れて行ってもらって向こうの世界に行くということも考えられます。ここで皆さんの頭に浮かんでいるのは浄土系の思想でしょう。 ◆娑婆と極楽 我々の世界は三千大千世界の一つです。そこで世界の一つ一つに名前が付きます。私達の世界何といいますか?「サハー」といいます。それを音写して、「娑婆」といいます。「サハー」というのは苦痛を耐えしのぶという意味です。浄土宗でいう西の方にある素晴らしい世界を何といいますか?極楽という名前です。それぞれの世界は仏の無い世界もあればある世界もある。もちろん極楽は仏がいるからこそ我々は行きたいと願うわけです。そこにいるのは阿弥陀という仏です。阿弥陀以外には仏はいない訳です。 この三原則を認める場合、お釈迦様は81歳で亡くなりましたが、阿弥陀様も81歳で亡くなってしまうと困るのです。何故かというと、鎌倉時代の親鸞聖人は救われたけれども、今行っても誰もいないということになってしまうからです。実は世界にそれぞれ寿命の期間というのがあります。我々の今の時代は100歳時代だそうです。ところが、宇宙には色々な時代があって、寿命の長い世界もあれば短い世界も
あって、阿弥陀さまの世界の寿命はとても長いのです。どれくらい長いかというと、無限です。それが阿弥陀という名前の由来ですね。無量寿です。無量寿でなければ我々は阿弥陀様に頼ることは出来ないのです。誰が何時そこに行っても居なくてはならないので阿弥陀様の寿命は無量寿なのです。そうなりますと最初に言った仏教との違いを考えて下さい。修行というものの必然性が薄れてきます。 阿弥陀様が我々を不思議な力で極楽浄土に連れて行ってくれるというのならば、それは超自然的なパワーですから、この因果の世界を超えます。つまり、世界は全て無機的な因果関係で自動的に動いていると考えていた本来の仏教の世界が変わってきます。キリスト教とまではいいませんが、不思議なパワーを持った絶対的な存在が宇宙に居るという思いになっていくのです。そうなると修行の意味が崩れます。修行というのは他に誰も助けてくれませんよ。ジャングルから抜け出すのは君自身の足だ。といわれるからそれに応じて修行して、修行した分だけ前に進んでいく。これが本来の仏教のやり方でありましたが。そこに超自然的パワーを持つ存在を認めるとなると、こんどは救いの宗教へと移って行きます。つまり自分で頑張って出て行く宗教ではなくて、誰かに引っ張り出してもらうという宗教へと変貌していくわけです。どちらかというとキリスト教やイスラム教に近づいていきます。 ◆阿弥陀様は人類を救う そうなるとこのような人たちが行う行為は、修行ではなくて「願い」という事になります。どのような願い方をすればよいか、阿弥陀様はとても慈悲深い仏ですから、お願いをしたいという気持ちを意思表示するだけで助けてくれる。遠いからお手紙は出せない(笑)その代わり声は届く。インド語で「ナム」というのはお願いします。南無阿弥陀仏は阿弥陀さん宜しくお願いします。これは救いの呼びかけそのものです。そして浄土宗では救いの言葉を何度も何度もだせば、きっと阿弥陀さんは皆さんが亡くなったときに極楽世界へ連れて行ってくれる。それをもう一歩進めると浄土真宗になります。これは、もはや我々はそのように努力して呼ばなくても、もう阿弥陀様は私達を助けてくれているというふうに、もう事件は過去のものになってしまう訳です。 じゃあもう呼ばなくてもいいじゃないか。でも助けてもらっているのに阿弥陀様にお礼の一つも言わないのですか。それは助かっているという自覚を持ってないのではないですか?もし本当に助かっているという気持ちがあるのならば、嫌でもお礼の言葉がでるでしょうというふうに南無阿弥陀仏は解釈が変わってくるのです。ですから浄土宗と浄土真宗はその部分が少し違うのですが、原理は同じです。このように大乗仏教の中の浄土宗を一つの例に挙げました。他も少し違いはありますが、皆同じ原理原則に立っています。そして宇宙が無限にあるので仏も無限という事になりますから、この宇宙には仏が満ち満ちているということになります。そして次々に我々は助かりたい、すがりたいというような仏を生み出していくわけです。これが今の日本や中国などの大乗仏教世界に無数の仏がいる理由です。 ◆大乗仏教と小乗仏教との救済方法の違い 仏になるために修行している人のことを菩薩と呼びます。仏が無数にいるのならば修行中の菩薩も無数にいるはずです。こうして大乗仏教の世界にはたくさんの仏とたくさんの菩薩が現れました。そして仏教の最終段階になると全部まとめてしまおうじゃないかということになります。例えば曼荼羅という絵を描いてその中にその世界を全部入れてしまう。或いは、真言を唱えるだけで一人一人が仏様を呼んだことになるなど、まとめる作業が進むようになる。これが密教的な考えであります。こうして大乗仏教はそれまでの修行世界とは違う新たな仏教世界を見出します。今の説明で行くとやはり宗教としても本来原則として全く違う宗教であるというような気もします。 大乗仏教は小乗仏教のことを自分のことしか考えない、周りの人間を助けない自分勝手な宗教であるといいます。我々こそは利他の宗教であるといいます。しかしそれは基盤とする宇宙システムそのものの考えが違うのでそうなるのであって、自分以外の者も助けたいという気持ちは大乗仏教も小乗仏教も同じですよ。これは間違えてはなりません。小乗仏教では救いたいと思っても自分もジャングルの中にい
るわけですから、自分が探した道を人に教えて、奮い立たせるしかないのです。大乗仏教の中には先程のような超人的な存在を認めていますが。その存在の力によってエイっと一瞬に、例えばジャングルを消してしまうとか、そういう形での人助けになりますから。人を助けるという意味が根本的に違うのです。しかし人を助けたいという想いが小乗、大乗両方に共通した考えであることは忘れてはなりません。 大乗仏教の性質を歴史的、学問的問題としてあげました。大乗仏教というのが、後の時代にできたならば、それは何時できたのだろうか、誰が創ったのであろうか。これはいまでも学界の大問題になっています。本当は私の専門はこのようなことなのですが、どうも言葉にすると難しいので、エッセンスを抽出してお話しさせていただきました。 この辺で終わりにします。どうもありがとうございました。
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