東京禅センター第7回公開講座 NO.14
| 【水墨画の中の禅-雪舟の山水画-」その2】 | 中島 志郎 |
平成17年12月17日 |
◆ はじめに 雪舟のお話も2回目ということで、前回とはまた違った視点でお話をいたします。前回は主に、中国の絵画理論とか中国の山水画という流れで雪舟を考えてみました。今日は、この日本の文化の、室町という時代の中で、雪舟を考えてみようと思っています。「一休と雪舟」というとミスマッチな、と思われるかもしれません。この室町の時代の中で、一休というのは大事な存在であるとともに、この時代の精神をあらわしていると思います。それに対して対照的なところに雪舟はいるのかも知れないと、そういう仮説でお話を進めてまいります。 
(画像) 探幽縮図中「雪舟像」 京都国立博物館所蔵 画像の転載を禁じます。
◆一休と雪舟 1394年に一休は生まれております。生涯が88年ということになります。それから、雪舟は1420年の生まれで、その間に26年、親子ほどという年の違いですね。ほぼ同時代を共にしたと二人であったと申し上げて良いでしょう。特にこの時代は、1467年以降、応仁の乱が起こりまして、室町時代の京都は大変政治的な混乱の中にあるはずなのですが、時の足利義政の時代ですね。東山文化のいわば真っ最中で、京都は妙な繁栄と静寂の中にあるという時代状況にありました。しかし、一歩京都を出ると、もう各地で戦乱が起こっているというような時代でした。一休は都の禅を代表する存在になっていきます。その一方、雪舟は都を離れて地方に移って自分の活躍の場を見つけていったわけです。 ざっと年表をたぐっていきますと、例えば、足利義政は1436年の生まれですね。1443年には世阿弥が亡くなっております。あの観世能の世阿弥ですね。それから、例えば一休で言いますと、有名な著作の一つ、『自戒集』は1455年、それから、雪舟さんが京都を去っていったのが1463年ぐらい。40代の半ばぐらいにさしかかっておっただろうと考えられます。この辺りから、一休と雪舟は違った道を歩んでいったのです。それから、1467年は応仁の乱ですね。この1467年の頃に、雪舟さんは明の国に渡っております。明国に渡って、新しい画境を開くというか、大変劇的な成長を遂げる体験があったのですね。 一休は、応仁の乱の戦乱を逃れて、京都に山城、宇治と山城の境の辺りにある薪村の酬恩庵に避難をする。現在、一休寺という名で知られていますが、そこに一休は難を逃れる。それから、一休の晩年は1470年ですから77歳になって、森女と出会いました。有名な『狂雲集』が編まれるというのも、その晩年のほぼ10年間のことでした。一休の方が当然、先に没するのですけれども1481年、88歳で亡くなります。それからほぼ20数年後、1506年に、今度は雪舟が生涯を終える。87歳でありました。一休に比べて雪舟の伝記は定かではない部分が多いようです。このような風に、20数年の歳の差はあるものの、ほぼ同じ時代を生きた二人であったということが、わかっていただけるかと思います。 ◆一休の禅
さて、最初に一休のお話を簡単にまとめておきたいと思います。一休が生きた室町時代の精神と言いましょうか、あるいは一休の禅をどう押さえておこうか、という問題です。先ほど申しました通り、東山文化の最盛期にあたります。京都では義政の時代、一方で相国寺を中心にして五山の文化が栄えるわけです。一休はその五山の文化の中心にはいないのですね。そこから外れた、後に、大徳寺系と称される、お坊さんということになるのです。若い頃より、堅田の、琵琶湖のほとりで修行をしたといわれています。もともと一休は後小松天皇の落胤であると、これは広く認識されていて、6歳で安国寺に入り、17歳の時に関山慧玄下の謙翁に投じて宗純と名乗るわけです。 それから直接の師匠にあたるのが華叟宗曇という方でした。この華叟宗曇の弟子で、一休からいえば兄弟子にあたる華叟宗為という方がいるのですが、この華叟宗為が大徳寺を嗣ぐわけです。これを遺恨に思うわけではないのですけれども、一休は大徳寺系あるいは五山の禅僧に対する批判を非常に激しい口調ではじめます。これが一休の禅の特徴にもなっていくわけです。非常に激しい当時の禅宗を批判する言説、あるいは詩文を展開していく。これが最初に申し上げました『自戒集』という文集になるわけです。この頃は、もう60歳を過ぎておりますね。 ◆
一休の禅と大徳寺周辺の文化人 また、一休のもとには、早くから大徳寺周辺の文化人が、大変沢山結集してくるのですね。その後、大徳寺がお茶の方で有名になるということはご存知の方も多いと思うのですが、お茶だけではなしに、例えば観阿弥や世阿弥、あるいは金春禅竹、これは能楽の、三代の師匠ですね。あるいは茶の湯でいえば村田珠光であるとか、俳諧の方では山崎宗鑑、立花の方でも、これは一休より早いのですけれども、六角堂の池坊専慶などという方が大徳寺の周辺に集まるし、直接一休とも接触をしています。ここら辺が、一休の禅を考える上での一つのポイントになると思います。 今日、日本文化の代表と考えられているような、例えば能楽にしろ、茶の湯にしろ、いずれも一休と接触している。一休の禅の影響を受けて、日本の室町の芸術が花開いていくという、そういう特徴を一つあげることができる。これがその一休の禅の偉大さといってしまえばそれまでなのですけれども、そこのところをどう考えたらいいのだろうかと常々思ってきました。恐らく禅宗が取り上げた、心の原理というものがそこに働いているのではないだろうかと、一つそういう仮説を立ててみました。 ◆世阿弥と心敬に見る心の原理 それは何かといいますと、世阿弥の『花鏡』の一節に「無心の位にて、わが心をわれにも隠す、安心にて、せぬすきの前後をつなぐべし、これ即ち万能を一心にてつなぐ感力なり」。その、心の働きというものに注目をしたのが世阿弥です。心で舞うといいましょうかね、目に見えた姿形ではなしに心の所作というものに注目をしたのが世阿弥であります。 また、連歌師である心敬という人の、これも大変有名な一節なのですが、「願わくば、心の師となれ、心を師とせざれ、」。これは仏教の言葉なのですね。心というものを師としてはいけない、心の師となれ、という。なかなか難しい一節ですね。己自らが迷ってはいけない、むしろ己が心の師としなければいけないという、これも心の所作をめぐる一つの大きな発見ということにもなるでしょう。この発想は、もともと『涅槃経』の言葉なのですが、広く室町の文芸や芸術を考える原理として使われたようなのです。 ところが一休の禅はどうであったかというと、室町の文化人・芸能人たちに禅を橋渡ししていく。つまり、心が問題であるとすれば、出家者であるか在家者であるかというそういうことは問題ではなくなる。中国の場合もそうなのですが、禅宗が中国の唐代に興ってきます。そして、禅宗のお坊さんの禅はいわゆる在家の知識人や、官僚、文化人である居士に繋がっていったのです。これは宋代になると顕著になります。 そこで中国の場合、自分の内面は仏教、すなわち禅なのですね。自分の内面は禅によって鍛えるといいましょうか、禅で諌める。外側は儒教ですね。政治をやる場合は儒教だと。「内禅外儒」内側は禅で外側は儒教、こういう知識人のパターンが定着してきました。日本の室町時代、まさに一休のところでもそういうことが起こったのではないかと、私は考えております。もちろん、日本の場合は、文化人が禅に大変関心を覚える。禅の心の原理を文化人、特に芸能者たちが受け取る。これがその日本の室町の芸術を一挙に深めることになったのではないかと思います。 ◆一休と『狂雲集』
しかし、一休はもう一つ別のところで『狂雲集』。これは全く清らかな仏教というイメージではなくなって、誠に人間の赤裸々な姿を描き出すという記録ですよね。先ほどの77歳で出合った森女という女性は『狂雲集』の中では、愛欲の対象になって描かれているわけです。これは文学上のフィクションなのだという風にも理解できるのですが、本当にそういう盲目の女性と生身の接触があったかもしれない。一休の中の世俗に対する批判、そして仏教を守りたいという強い信仰心。その一方で赤裸々な愛欲、人間の欲望というものを認める自分という葛藤の存在なのです。そういうところが一休の精神の新しさであり、面白さであり、現代の我々が興味を覚える一つのポイントになるかと思います。 室町は平安から鎌倉までの仏教が持っていた権威とは、また違う仏教の支配が次第に終わっていく時代背景があります。室町の義政の時代、京都の五山は世俗化の典型ということになるでしょう。一休は五山のど真ん中で、沢山の世俗の人たちを目の当たりにし、五山僧の堕落した姿も目の当たりにする。そこで、何とか純粋な信仰を守りたい。その一方で、先ほどの『狂雲集』のように、自分の煩悩を単に抑圧するというかつての聖僧ですね、戒律に従うような、そういう存在ではもはやありえない自分。という、矛盾と葛藤の意識ですよね。 ◆画僧雪舟
それに対して同時代の対極にいるということになるのですけれども、雪舟はどういう存在であったか。雪舟は先ほどの年表でいいますと、40代の半ば1463年に京都を去ることになります。雪舟は12、3歳ごろでお坊さんになって、それからやがて、京都の相国寺に登ってきます。そして、この時代の最高の画家であった周文について絵を習い始める。青春時代のほとんどを、京都の相国寺で過ごすわけですね。ここで画業を積んでいきます。相国寺では知客職という、お客さんの接待役をずっと務める。僧の位からすると、低い位に甘んじていました。相国寺にやってきたときから絵を勉強したい、というつもりでやってきたのでしょうね。40過ぎまで京都にいました。 ところが雪舟は京都では認められませんでした。京都では、むしろ小栗宗湛という方が後継者として指名されて、御用絵師になり足利義政に抱えられていきました。五山の出世コースからは外れてしまう。そして、この山口に新天地を求めるということになります。その数年後、明国に渡ったのですが、この時代の山口地方を支配していたのは、大内氏でした。下剋上の世の中で、次第に勢力を付けてきた、大変有力な地方の武将だったのですが、その庇護下にあって遣明使の一行に加わることができ新天地を求めて明国に旅立つということになります。雪舟の伝記は、その前後も中々定かではありません。しかし結局、雪舟は京都に帰ることなく、中国から帰国して最後まで山口で生涯を終えることになったのです。 ◆雪舟と禅
一休が矛盾と葛藤に満ちた、ねじれた精神構造を持った禅僧であるとすれば、その対極にある雪舟はどう描かれるか。そういう最初のテーマに帰るのですけれども、これまでの雪舟研究の優れた論考をみても、雪舟の仏教とか、雪舟の禅は、実はなかなか難しい問題とされております。雪舟は画家なのだからその作品に意味があるので、その絵画作品を無理矢理禅や仏教に繋げなくてもよい、という論もあります。これまで、雪舟の禅とか雪舟の仏教を、語るというものはなされたことが無いように思いますね。 しかし、雪舟は生涯禅僧でありましたし、還俗した事実も無いわけで、明国から帰ってきて沢山の作品を発表する中で、雪舟の名前が段々知れ渡るわけです。山口に雪舟ありということで、とうとう足利義政の目にも留まることになりました。足利義政が1482年、東山山荘を造営するという段になって、義政は雪舟を京都に呼ぼうとするのですね。ところが、雪舟の方はこれを断っている。京都には行かない、とそういう記録が見えます。それに代わって、狩野正信の登場ということになるわけで、これは小栗宗湛の後を受けて、狩野派の出発点にもなっていきます。御用絵師の主流派がこうやって形成されていくのでした。 ここで興味を引くのは、やはり雪舟は敢えて京都には来ないというところですね。この時点で60歳を過ぎてはいましたが都に戻れたかもしれない。ところが、雪舟は戻ろうとはしませんでした。ではそれが雪舟の禅や仏教とどう繋がるのか。ここら辺が私の今日の仮説にもなるのですが、雪舟の絵をとおしてその宗教感覚を辿りたいと思っています。 ちょっとエピソードとして雪舟の名前の由来をお話しておきます。雪舟は京都にいた40歳代の半ば、元の禅僧である楚石梵gの墨蹟を手に入れる。墨蹟に雪舟の大きな二文字が書いてあって、これを大変気に入って、ここら辺から雪舟は自らを雪舟と名乗るようになったということになっております。そして鹿苑院の僧録であった、龍崗真圭によって、雪舟の名前の由来を書いてもらった。雪舟二字説なのですが、龍崗によりますと、雪は心の本性をあらわす。舟は正道の作用を意味する、という由来をわざわざ書いてもらうのですね。こういういかにも仏教的な説明をしてもらうのです。仏教としてはいささか月並みな説明といえますね。この雪舟の二文字を以って、雪舟の禅とか仏教を考えるというだけでは、無理があるわけです。そこで雪舟の絵を見ながら、雪舟の宗教観を考えていきたいと思います。 ◆一休の肖像画と遺偈
まず、これは雪舟ではなくて、一休の方ですね。一休寺にある肖像画です。これは一休の遺偈の方です。「すみのなんぱん誰か解す我が禅、虚堂来るもはんせんに値せず(漢字不明部分あり)」と読みますが、信貴山の南。その娑婆世界で誰が私の禅を理解できるだろうか。虚堂智愚、これは中国の禅僧で一休の法燈である南浦紹明の師匠に当たります。虚堂が来たからといって、はんせん(漢字不明)にも値しない、虚堂何するものぞ、と大変気張った遺偈が残されている。一休は純一の禅というものを守りたい、貫きたいという意識がある。しかし、この時代の仏教は、信ずるに足りない。これが葛藤の由来ですよね。信じたいけれども、信じ切れない。仏教に純一に打ち込みたいのだけれども、それも叶わない。ここら辺のねじれた精神が、一休の詩文になっていくという。私はその都会人一休のこの時代の最先端の精神構造だろうと思いますね。 ◆雪舟の肖像画と倣夏珪
それに対する雪舟の方はいかがか、ということなのですが。これは雪舟さんの肖像です。割と早い頃、中国から帰って来た頃でしょうかね。ここに「倣夏珪」つまり、中国の水墨画家で夏珪という著名な画家の作品に倣って描いたということですね。倣画と言いますが、色々な中国の先生の絵を手本にして、倣って描いたという意味です。これが典型的な一つの図形だと思います。この巨大な、前景を塞ぐような岩ですね。その向こうに楼閣が見える。この構図がどうやら夏珪の特徴というよりも、雪舟の特徴になっていくのだろうと考えられます。後々このパターンが繰り返されていくのですね。 これもその夏珪に倣ったという倣画なのですけれども、ここに、道人が道を尋ねていくという象徴的な表現になるのですが。ここでも、この大きな前景を塞ぐ岩があって、その向こうに楼閣が垣間見えている。山のかなたの向こうに清浄な領域があって、清浄なる人々が住んでいるに違いないという、こんなその雪舟の精神のパースペクティブと言いましょうかね、ある種の遠近感を象徴的に表しているのではないかと思います。水墨画では、ある意味常套のパターンで、よくあるパターンなのですけれども、私の、今日申し上げる仮説から言うと、やはりこれが雪舟の一つの象徴的なその図形といえるでしょう。 ◆
四季山水図 これは大変有名な雪舟の「四季山水図」です。こういう前景の石組みの向こうに楼閣が登場する。ここら辺は水墨画の一つの定番の形を留めておりますけれども。それがどういう風に変化していくのか、というところがミソです。例えば、ここに人物が描かれております。ここにも家がありますね。現代の遠近感からいうと、これはちょっとおかしいことはおかしいのですね。この人物は大き過ぎる。全部の景色の中で考えると、この人物はやたら大き過ぎるということになります。しかし、水墨画では、それは余り意味が無い、というか構わないのですね。 私たちが見ているのは、近代人のパースペクティブ、遠近感でして、一点透視、一点で通して物事を見るとか、一点に焦点をあてて物事を配置するというルネサンスから後の遠近感ですので、それでいくとこのように大きくならないのですけれども。東洋絵画の遠近法というものは、そういう理屈にはどうもならないのですね。これはこれでまた別の一つの世界なのだという、こういう単純な一点の遠近法では割り切れない絵画世界というものが東洋絵画では許されるのですね。 ◆山水長巻
これは「山水長巻」です。雪舟が67歳の時、山口の大内義弘に献上された作品であろうと言われています。国宝になっていますが、全長が16メートル、縦は40センチと、山水の長巻ということになります。これを多少めくっていきますと、やはり先ほど見たような、雪舟の山水画のパターンが出ておりますね。縦に伸びる岸壁があって、岩壁があって、そしてその向こうに景色が見えている。これは山水画の雪舟の山水画に限らないのですけれども、微妙に現実の風景とは違う処理がしてありますね。 水辺の向こうに家が連なっている。その上は深山幽谷なのですけれども、その隣にもう水辺が始まっている。およそあり得ない図柄ですが、山水画では許される描き方なのです。四季の山水ですから、春の図柄なのですけれども、途中から夏が始まるというわけで、良く見ると微妙におかしいのですが、それを繋いでいくところが、画家の技量とでもいうのでしょうね。 夏の景色に目を移すと、岸壁があって、途中で岸壁はどこかに行ってしまい、山陰が始まって、もう多重塔ですね。仏塔がある。ここら辺の処理というものもおかしいと、しばしば話題になるところですね。非常に緻密な岩が描かれており、縦の岩があるのですが、いきなり何だか間抜けな景色になっているのですね。この「山水長巻」、16メートル余りの絵画作品は、非常に短時間で描かれたと思うのですが、一日で出来上がるものではありませんから、数日かけて描いたのでしょうね。繋がりがどうも悪いというのは、日が改まったのでしょうか。どうも間抜けな処理になってくるのは、まだもう少し気持ちが乗ってこなかったのかも知れませんね。 秋の景色は一番華やかなところで沢山人物が描かれている場面ですね。確かに見事に描かれているのですけれども、どうも雪舟は余り人物画を得意としなかったのだろうと思います。雪舟はやっぱり山水こそ本分である。そういう意味では人間に余り関心が無いのではないかという推理が成り立ちます。ここら辺も一休が執拗に人間というものを凝視した、その対極にいるようです。ちなみに人物にはほとんど目鼻がないのです。これはなにか記号的といいますか、確かに見事に描かれてはいるのですが、なにか約束事をきめて描いた様に見えるのですが?どうでしょうか? 最後の冬の景色ですが、城壁の向こうに楼閣が並んでいます。また城壁の向こうですからこれを町と考えてもいいと思います。先ほど、雪舟が都に帰らず足利義政の招きを断ったということで、雪舟はこの城壁の外に居るというのですね。城壁の内には入らないのです。城壁の中の人物ですが、町の人々という象徴にこだわるかもしれませんけれどもね。この冬の城壁の外を通り過ぎて行くと、人間がかき消えてしまう。どうも、これは雪舟の現在という所にたどり着くのではないでしょうか。城壁の前を通り過ぎて、山口の地方都市ですから決して山水ではないのですが、都にはいない。そして雪舟は、現在はこういうところに在るという風に読めないでしょうか? ◆
最晩年の山水画 
(画像) 雪舟筆「天橋立図」 京都国立博物館所蔵 画像の転載を禁じます。
それからこれが最晩年の山水画です。絵の中心にやはり楼閣があります。しかも近くにも家がありますが、雪舟の目線は中心の遥かかなたの楼閣に向かっているといえます。この点が雪舟の宗教意識を考えるヒントにならないかと思います。 もう一枚これこそ最晩年の絵です。この絵において複雑な遠景の方に雪舟の目線は行っているのではないかと、これは非常に複雑な遠景を丁寧に書いています。この遠近法も少しおかしいです。色々変な点がありますね。また、このようなところで空想を楽しむわけですね。色々なイマジネーションが生まれる絵の配置になっています。そこで私の考えを言いますと、楼閣を見ているのではなく、雪舟の目線は遥かかなたに向かっているのです。 これが現存する最晩年の雪舟の絵です。最初は夏珪に習い、そしてやがて雪舟の宗教意識を象徴するものになっていく。それがそのはるか彼方の清浄なる領域が必ずあるのだという宗教意識につながっていくのではないかと思います。 ◆再び一休と雪舟
これを一休と対比して語れるかどうか自信はありませんが、一休が人間の葛藤というものを見続けたとすれば、雪舟の方はひたすら清浄なるものを目指し続けた。近景に岸壁を連ねてこれを現世の困難というように解釈できると思います。この困難の向こうに清浄なる領域が必ずあるのだと考えていたのでしょう。雪舟には清浄なるものへの憧れというものがあったと思います。 雪舟は言葉を残しておりません。絵画しか残していませんが、私はここに雪舟の宗教意識というものが辿れるのではないかと思ったのです。それが雪舟の純粋そのものだという所だと思います。一休はそういう意味では人間の俗世の中で生きていた人ですので詩を書くのにはもってこいです。一休は言葉の人といいますかね。人間の清浄なる部分と汚濁なる部分、清、濁というものを葛藤状況として、詩として描き出す。これが一休の真骨頂だと思います。それに対して、雪舟の絵は心に葛藤があると描けないものです。清浄なるものを保ち続けなければおそらく絵は書けなかったに違いない。雪舟はそういう意味で山水というものを目指しそしてさらに山水の向こうに清浄なる聖なる領域、菩提涅槃の世界に憧れていた、思い描いていたというように思います。
◆ 芭蕉の雪舟像 後世、松尾芭蕉(1687〜1694没)は『笈の小文』に、「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり。・・・造化にしたがい造化にかえれとなり」と記しています。つまり、言わんとするところは西行、宋祇、利休という、これは繋がらなくは無いですね、日本的なわびさびと言ってもいいし、それに自らの芭蕉をくわえると、漂白する精神ですね。漂白の画人雪舟。そういう風に芭蕉はとらえたのではないでしょうか。今日までそれが影響しておりまして、雪舟というと生涯さまよっていた、漂白していた画人というようになりそうですが、これは少し違うと思います。芭蕉が思い描いた雪舟像ですから。雪舟は生きている間から大変著名な画家でした。都には戻らなかったということもありますが、山口の地方に拠点を定めて、弟子もいたし、あちこちに自分の活動する拠点があったようです。そこをめぐって日本中を行脚して歩いたという、それが事実な様です。そう考えると雪舟というのは漂白の画家であった、と考える必要は無いと思いますね。 また、雪舟は山水というものを、絵画を見てもわかるように、きちっと物の形を描こうとしています。このへんも大きな特徴です。前回、牧渓という人物を取り上げましたが、この牧渓の山水画というのは霧がかかって、もやっとしていかにも日本人の好みであると申しました。雪舟の山水画はこれとは反対の所にあります。雪舟の山水画は霧がなくしっかりと山水を書いている。これも私流にいいますと夏珪に習ったというよりも、山水というものを強いタッチで描き出そうとしている。それは先ほどの話で言うと現世の枠組みといいましょうか、現世の世界というものをきちっと描き出す。現世の世界を描き出して、そしてその対極に彼方に清浄なる領域というものを浮かび上がらせるというそういう対比が雪舟の意識の中にはあったのではないかと思います。
一方に、一休という葛藤する複雑な精神をおくと、雪舟という清らかな魂を守り続ける、あるいは憧れ続ける精神が見事に見えてくると思います。それも禅といえば禅であるし、一休とは対極にあるもう一つの禅の形ではないかと思うわけです。
苦しいまとめ方でしたが、この様に雪舟の絵画が読めるのではないかという訳で雪舟の考える宗教意識というものを少し探ってみました。 長時間ありがとうございました(講演終了。拍手)。
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