東京禅センター第7回公開講座 NO.15
| 【山内一豊の肖像画賛について】 | 西尾 賢隆 |
平成17年12月17日 |
はじめに 前回のお話では南浦紹明(大応国師)が中国で無示可宣から贈られた餞行偈を見ましたが、その墨蹟の中では「明知客」といって知客さんの役でした。その大応が日本に帰ってきて、30年間博多や大宰府に居ました。その後、鎌倉の建長寺や京都に行くことが叶ったわけです。大応の跡を継いだのが大徳寺の宗峰妙超(大燈国師)でした。そして、妙心寺開山の関山慧玄(無相大師)へと法系は続きます。 妙心寺の歴史の中で山内一豊の肖像画がどの様な位置にあるのか問題になると思います。この人を取り上げることになったのは、来年の大河ドラマの主人公だからです。一豊の妻は「千代」といいますが、実際には「千代」という名前かどうかわかっていません。山内一豊は戦国武将で、激動の時代を経て最後は土佐の殿様になります。尾張の国の出身ですが、出生地には二つの説があるようです。 
(画像) 山内一豊肖像画 (財)土佐山内家宝物資料館所蔵 画像の転載を禁じます。
一豊は織田信長に仕え、次いで豊臣秀吉の配属になり、最後は徳川家康下の大名として終わりました。一豊のこの肖像画は、高知の土佐山内家宝物資料館にあり、山内家に伝来しているものです。この肖像画の賛の部分は『山内一豊』という本を出した、高知大の山本大(たけし)先生の訳が唯一のものです(新人物往来社 2005年)。その他に出ているもので小和田哲夫という方のものでは中身についてはまったく触れていません(小和田哲夫『山内一豊』PHP新書 2005年)。 1)
一豊と大通院 一豊が亡くなったのは、慶長10年(1605)9月20日です。江戸のごく初期に亡くなり、本当に苦労するために世の中に生まれて来た面があります。「高知城主山内一豊卒ス。養子康豊嗣グ。幕府、康豊ノ若年ナルヲ以テ、其生父忠豊ニ命ジテ、之ガ後見タラシム」という綱文があります。このような綱文の元になったのが『諸寺過去帳』(妙心寺過去帳書抜)というものです。その上巻に「大通院殿前土州太守従四位心峯宗傳大居士、慶長十乙巳九月廿日」となっています。妙心寺の山内には五十近く塔頭寺院がありますが、ちょうど妙心寺の庫裏の裏側にこの大通院があります。大通院の由来はこのところから来ています。 一説によりますと一柳氏が最初に大通院を建てたが、後に一豊の養子である湘南和尚が第二世として住持をしたということから、開基が山内一豊の方に移ったといわれております。このようなことから大通院殿といわれるようになりました。一豊には『慶長九年十年記録切』が残っています(『土佐国群書類従拾遺十二所収』)。この中を見ますと一豊は61歳で亡くなっています。ところが『家忠日記摯竅xという資料には60歳で亡くなったとあります。 『慶長九年十年記録切』には「大通院殿心峯宗傳大居士と号す。一豊公御在世、法號、院號、血脈、授戒等、南化國師より傳授。依之、御頸に掛御著用也。御導師真如寺開山在川謙作和尚也。葬日輪山、火葬」とみえています。ですから一豊は、高知の真如寺の在川謙作という和尚が導師となって葬儀が行われ、そこに葬られたという事になるわけです。その大通院殿心峯宗傳大居士という院号は南化國師から授かったものです。その南化國師は悟渓宗頓という方の四代後の法孫です。 その悟渓宗頓は妙心寺派四つの本庵の一つ東海派の開山です。悟渓宗頓の系図を見ると法嗣の獨秀乾才、仁岫宗壽、甲斐の恵林寺に住持していた快川紹喜、そして、その弟子の南化玄興と続きます。この方に山内一豊は師事したということになります。その南化の弟子に湘南宗化がおります。その湘南は、山内一豊が拾い子をして育てた人です。大通院の第2世ということになります。そのことから、一豊が大通院と関係してくるわけです。先程の山本先生の本を見ていますと、大通院の山門は高くなっている。それは山内一豊が馬に乗ったまま入っていけるように高くしてあるのだ、というようなことが書いてありました。 2)
一豊肖像画賛 『大日本史料』を見ていますと、その中に肖像画の賛の釈文が見えています。「山内一豊肖像賛」です。そういうところから写真と見比べながら見て、そして写真の行数と同じように釈文を私なりにつくったのが1枚目の原稿用紙に書いたものです。この肖像画は左から右へと書いてあります。普通は右から左へと書くのですが、なにか原則があると思います。それを普通の漢文の賛のように直したのが下のページの5の所です。 そのところの5行目の所を見ますと、それが書かれた時のことが書いてあります。「這是大通院殿前土州太守従四位心峯宗傳大居士之遺像也孝子院頭見求山僧卑語贅於厥上」。この像は大通院殿前の土州太守、土佐の殿様である従四位の心峯宗傳大居士の遺された肖像であると説明してあります。それは、孝子の院頭(院頭は拾い子である湘南宗化和尚)が、私の拙い言葉、賛を求められ、それに対してあまり良いものは出来ないが偈一篇をつくり、そして賛詞としたのだ、と言っています。 その賛を「維時慶長十三著雍游兆黄鐘念六日再住花園鐵山老拙懶斎操觚於西京大龍室中」これは慶長13年(1608)11月の、念は20という意味です。ですから26日に作成した。そして「著雍游兆」が読めないのですが、普通は下に書きましたように歳次戊申といいます。これを書いた鐵山宗鈍(斎号は懶斎)がもじって書かれているのであろうと思いますが読めません。歳次その年まわりが戊申のときにあたるのが慶長13年であるという意味です。この時再住だった鐵山がこれを紙に西京の妙心寺の大龍院の室中で書いたと最後は読むと思います。 鐵山がこれを書いたということは、この方は系図でいいますと特芳禪傑の派(霊雲派)に属します。景川宗隆は龍泉派です。もう一つ、4行左に東陽英朝というのが聖澤派です。南化玄興・單傳士印、湘南宗化という東海派ではありませんが、霊雲派の鐵山に肖像画の賛をお願いしたということになります。禅僧でいいますと肖像画は頂相(ちんそう)といいます。この頂相も唐音です。中国の新しい音です。前の方の4行が賛です。偈・偈頌などといいます。賛の方はそこに印を付けましたように下平声陽韻をふんでいます。 3)七言絶句の賛 「画工 写し出す大通仏、万事無心 道場に坐す。天地同根 是くの如きの相、千峰盤屈して碧蒼々。」と賛をしております。この山内一豊の肖像そのものは、衣冠束帯をした宮中に参賀することの出来るような姿をしています。もう一つ大通院にあります一豊の方は、絡子をかけた肖像画です。ただ、なぜか大通院にあるものには賛がありません。たまに禅僧のものでも賛がないものがありますが、普通は賛が書いてあります。このような頂相・肖像画がつくられるのは供養するときに掛けて法要するためです。その中の画工が描き出した大通仏というのは、山内一豊を指しています。 同時にまた大通智勝如来ということをも表しています。大いに通ずるという漢字が書いてありますから神通力を備えた仏様が大通智勝如来と言うことになります。あらゆることに無心であってそして道場に坐っている。その坐っている所を道場に見立てて賛を述べています。同時に禅に参じているという姿を写しだそうとしていることになります。「画工 写し出す大通仏、万事無心 道場に坐す」という言葉の出典は、『法華経』の化城喩品と言うところの偈の部分にそれが出てきます。 大通智勝如来ということを直接、鐵山宗鈍が思い浮かべたのは、大通院と関係するからであって、その元になったのは、おそらく『臨済録』から来ているのであろうと思います。師匠にあたる南化玄興が山内一豊に戒名を授ける。その際に思い浮かべたのがこの『臨済録』であると思います。示衆に「問う、大通智勝仏、十劫道場に坐するも、仏法現前せず、仏道を成ずることを得ず」と。また、大通智勝仏の話は『無門関』の第九則に大通智勝の則が入っています。 その第三句目に当たるところが、「天地同根是くの如きの相」天地と私とは同じ根源のところから出ているのはこのような姿だといっている、その言葉そのものは『碧巌録』の第四十則、本則に「挙す。陸亘大夫、南泉と語話せし次(とき)、陸云く、肇法師道(いわ)く、『天地は我と同根、万物は我と一体』」という文句(肇法師というのは僧肇のことです)をふまえてこれがつくられています。 最後のところの「千峰盤屈して碧蒼々」多くの峰がうねりくねって青い山々が連なっているそういう姿である。山内一豊の背後にはその様なものが見えているといっていますのは、その出典にあたる言葉が『碧巖録』の第35則、頌に見えています「千峰盤屈して色藍の如し」というところです。多くの山々がうねりくねっているという姿は五臺山の姿を表している。その五臺山は文殊さんがおられるといわれている中国の山西省の北にあって、日本の中世の多くの祖師方も、五臺山にいって参拝をしたいという思いをもたれたところなのです。 4)土佐の一領具足 肖像画の方は直接には土佐の五臺山を指しています。その五臺山にある寺が吸江寺という寺です。元々、ここは天龍寺の開山・夢窓疎石が開いた寺です。吸江庵といっていました。その吸江庵の山号を五臺山といいます。このことをふまえてこの賛がつくられています。五臺山にある吸江庵が中世から近世になるときに寂れていたのを再興したのが一豊の養子、湘南宗化であったといわれています。そのことから、現在、吸江寺は妙心寺派のお寺になっています。この土佐というところは夢窓疎石も行きましたが、その弟子の義堂周信・絶海中津という五山文学の双璧が生まれたところです(非常に辺鄙なところにありました)。賛の話の最後のところは土佐の様子を表しています。 この土佐の地を徳川家康から拝領して、土佐20万石、非公式には24万石といわれていますが、そこの大名になるように家康から指示されました。その前の土佐の殿様は長宗我部です。西軍に属したので実際には関が原の戦いの時に参戦はしなかったようなのですが西軍が負けたので領土を没収されました。その前に秀吉が兵農分離、刀狩りをしますが土佐では徹底していませんでした。その様な土佐の兵農未分離の状態の人たちを一領具足というふうに言っています。戦争のない時は田んぼを耕し、戦争の時は鎧を着けて武具をもって戦場に出かける人たちのことを一領具足といいます。代がかわり山内氏になると自分達はどの様になるのであろうという心配があったわけです。その様なことから一領具足のひと達が一揆を起こします。その一揆を平定したのが一豊でした。その様なことをふまえて賛の方はできています。色々な苦労を乗り越えて山々がうねりくねっているように、すんなりと土佐の殿様として入って行ったのではなく、苦労しながらも土佐の国を治めていったのが一豊だと、この賛で述べようとしているのだと思います。 5)
南化玄興に師事 山内一豊が南化玄興に師事するようになったのは、戦国の武将ということで色々な土地を転々とするのですが、その一つに長浜がありました。江州の長浜ですね。その長浜にいた時に、大きな地震が起こった。今、耐震問題が大問題になっていますけれども、大きな地震が起こったのです。その地震によって、城も倒壊したわけですね。 その時に、この一豊夫妻にはなかなか子供さんができなかったのですけれども、ようやく産まれた娘が6歳になっておった。その子供さんが、建物が倒れて梁の下になって亡くなってしまったのです。その頃の6歳というのは、数えだと思いますが、今で言いますと小学校1年生ということになりますね。その娘さんが亡くなってしまった。そういうところから、この生きていく生甲斐を見失った、茫然自失した、そういうことですね。 その時に、岐阜の瑞龍寺に居られた南化玄興に救いを求めた。その南化に師事することになって、自分の行く道に燈を灯すことができたわけです。その子供さんの名前が、「與禰姫君」とあります。與禰さんです。そこを見ますと、「江州長はまに居給ふ時の事にや、天正十三乙酉年十一月廿九日、大に地震して、御城も崩れたり、此時見性公の御腹にてさせ給ひて、いとおしくし給ひける與禰姫君、六ツになり給ひけるも、はへなく折れさせ給ひて、うせ給ひけれハ、御なけき大方ならぬ事なりしとそ、其後御城外に、わらふこに短刀一腰をそへてし置る捨子有、五月茂右衛門をして、ひろはせられ成長の後出家うなし、與禰姫君の御跡をとふらはせ給ふおほしめしにて、御養子としてそたてさせ給へり」(『山内一豊夫人若宮氏伝』)とあって、南化國師の弟子となり出家をすることになります。棄児の拾は南化國師の弟子となって、湘南和尚と言われるようになります。見性公というのは、一豊婦夫人の「千代」さんの戒名が、見性公ということです。その南化に師事する、そのことによって、ここに生甲斐を取り戻したということになるわけです。 6)
湘南宗化 湘南のことについては、上の段のところに、『一豊公御功付御伝記』というのがあって、それに「慶長元丙申年、湘南和尚、正法山妙心寺南化國師弟子の待者と為り、釈門に入り、御入寺。同三戊戌年、喝食と成玉ひ、同五庚子年、剃髪宗化と号す」、喝食というのは食物を供える役、食事の時に案内をする役のことを喝食といいます。ですから、行者になったということです。 この行者というのは、これは寺に入って、そして、まだそのままの状態で、髪を剃らなくって、寺の雑用をし、それからお経を習ったりするというような段階の人を、行者と言っています。行者の代表的な人では、六祖慧能の盧行者が有名ですね。「後妙心寺塔頭一豊公一寺建立、南化の血脈を受け、大通院と号す。暫く南化入院す。宗化未だ熟せず、後年単伝和尚法を伝え、大通院と吸江寺と兼帯す」。とあって、この湘南宗化は大通院と、それから土佐の吸江寺とを兼務住職をしたということが、この『一豊公御武功付御伝記』に見えています。 この前の時に、妙心寺の無著道忠さんが『虚堂録』の注釈をした『虚堂録犂耕』という話をしましたけれども、その無著道忠さんが著された『正法山誌』というものを見ますと、この「大通院、旧一柳伊豆守建立す、南化和尚方丈棟梁文に詳記す。後湘南和尚これに住す、湘南は土佐州太守の子なり。一柳之を憚りて、退きて檀主と為らず。今、其院牌の名大通院殿と謂うは、土佐太守の先祖なり」と、一豊のことですね。 「蓋し一柳退きて後、土佐太守先祖を以って大通院殿と称するのみ」、ですから、一柳氏も大通院殿と最初は言っておった。それをまた遠慮して、この山内一豊の方に譲ったということになります。この一豊は、南化によって、その子供の、幼子の亡くなった痛手を乗り越えて、そして、禅に参じていく、ということになるわけです。で、まあ、いわゆる普通ですと、この夫人にあたる「千代」さんの方が有名になっているんですけれども、これだけの土佐の地を収めるようになっていくためには、やはり本人の働きにも大きなものがあったと思います。その「千代」さんの俗説ですと、御馬を拝領してというのは、それは史料の上ではあらわれてこないらしいですね。そういう話が、江戸時代になってようやく出来てきた、と言われています。 7)心峯宗伝について それから、この大通院殿心峯宗伝大居士という風に一豊の戒名を言いました、南化の心情には、恐らく、『伝心法要』の、その以心伝心という言葉が背後にあったのだろう、と思います。それは、「心を以って心に伝う」というその言葉ですけれども、この戒名というのは、号と諱の二つから成り立っています。心峯宗伝の心峯は号、諱は宗伝です。この前言った原則からすると、「しゅう」とは読まなくって「そう」と読む。この号と諱というのは、これは繋がりをもっています。宗というのは、系字ですので、これは上との繋がり、あるいは横との繋がりから来ています。 そうすると、これとこれが意味の上で繋がっている。禅僧の場合のように、諱の系字を省略して、諱を上にもっていきますと、伝心峯という風になります。そうすると、伝心、と繋がってくるわけです。心に伝う、心を以って心に伝う、となる。そうすると、恐らく南化の頭の中には、この、ちょっと単純ですけれども、黄檗希運(臨済の師匠である)の『伝心法要』が頭にあったのだろうと思います。 おわりに 今日、こういう話をしてみようと思いましたのは、この大河ドラマが来春から始まる事もあって勉誠出版から出ています『アジア遊学』という雑誌に、何か書かないかと言われました。その雑誌の特集のテーマは、「義経から一豊へ」というタイトルです。それに何か沿うようなことで書けないかな、と思って今回は山内一豊の肖像画賛について書いたわけです。 それからまた、夫人の「千代」さんの方も、この肖像画賛があるのですけれども、それはまだもう少し勉強しないことには、ちゃんと解釈できませんので、いつかそれを読んでみたいな、と思っています。これも何かお化けのようになっているんですが、こちらの方は、單傳士印が賛をしています。そういうのに触発されて今日のタイトルを付けました。 山内一豊の肖像画に賛があって、その賛を、妙心寺の鐵山宗鈍が書いている。その賛を書くきっかけとなった来由は、長浜の地震で一豊は娘の與禰さんを亡くして、生甲斐を失い、茫然自失している時に南化玄興によって生きる勇気を与えられた。それは一豊だけでなくて、夫人の「千代」さんも同時に南化から大いなる励ましを受けて、そして二人で力を合わせて、最後は高知の殿様になる。後に妙心寺の住持になります南化が一豊夫妻の生涯に大きく関わっている。そのことが今日言いたかったことです。 非常に取り留めないことに成りましたけれども、これで、この拙い話を終わることに致します。どうもご清聴有難う御座いました。(拍手。講演終了) あとがき あとの座談会の時、阿部浩三学長老師から肖像画の向いている方から画賛が書かれる、という教示をうけました。あとでみてみると、夫妻は向きあう形で描かれています。私は賛の方ばかりを見ていたことになり、絵の方も見、画と賛の全体を見なくては、と思ったことです。
なお、画賛の撰者、鐵山宗鈍は、老師のお寺、臨済寺に住持し、家康の命により、平林寺(野火止)の中興開山ともなっています。 |