東京禅センター 平成18年度第4回公開講座 NO.21

【 禅修行の実際 〜趙州狗子を中心として 】松竹 寛山
平成18年9月16日

皆さんこんにちは、今日は、禅修行の実際ということで、私たちが専門道場に入門して最初に与えられる関門である『無門関』の第一則「趙州狗子」、「趙州無字」ともいいますが、これを通してみていきたいと思っております。

『無門関』『碧巌録』『臨済録』などの祖録の読み方には大別して2つあるといわれています。一つは学問的な読み方で歴史的にも言語学的にも正確に読む読み方。もうひとつは、実践的な読み方で実際に道場で老師から「趙州狗子」などの公案を与えられて禅堂で拈提(ねんてい)するための読み方。拈提というのは『無門関』『碧眼録』などの中から公案を与えられて「〜の公案を見てくるように」といわれて、禅堂で寝てもさめてもその公案をズーッと胸に暖めて問題として工夫するということです。そして、老師のところに自分の工夫した見解(けんげ)を持っていって、伝統的な公案の見解とピッタリとあっているかどうかを判断していただき、あっていればその公案を透過するということになります。

『無門関』第一則「趙州狗子」の本則に対する趙州の解説は、禅を実践するに当たって最初の関門をどう透過するか、懇切丁寧な説明がなされています。思いっきり、実践的に意約してみたのが以下のものです。

■無門関 第一則「趙州狗子」
【 本 則 】
趙州ちなみに僧問う、狗子に還って仏性有りや、また無しや。州云わく、無。
〔趙州にある僧が尋ねた、「犬にも仏性があるでしょうか」と。趙州は「無」と答えた。〕

【無門禅師の解説】
無門曰く、参禅はすべからく祖師の関を透るべし。妙悟は心路を窮めて、絶せんことを要す。祖関透らず、心路絶せずんば、尽くこれ依草附木の精霊ならん。
〔無門が言うには、禅の実践には、まず「祖師の関」を透らなければならない。そして、悟りを得るには、心の状態を見窮めて妄想・煩悩を滅してしまうことが肝要である。祖師の関も透らず、妄想・煩悩を滅する経験もないのに禅を云々するならば、それは中途半端な似非禅者に他ならない。〕

しばらく道え。如何なるかこれ祖師の関。ただこの一個の無字、すなわち宗門の一関なり。ついに之をなづけて禅宗無門関という。 
〔さあそれでは、祖師の関とは何か。それは、この一個の「無」字である!これが、禅宗の第一の関門であり、名づけて「禅宗無門関」というのである。〕

透得過する者は、ただ親しく趙州にまみゆるのみに非ず。すなわち歴代の祖師と手をとって共に行き、眉毛あい結んで、同一眼に見、同一耳に聞くべし。あに慶快ならざらんや。透関を要する底あることなしや。
〔これを透過する者は、趙州に親しく会えるだけではなく、達磨をはじめとする祖師方とひとつになって、祖師の眼で見て、祖師の耳で聞くことになるのだ。実に愉快なことではないか。さあ、透関しようとする者はいないか。〕

三百六十の骨節、八万四千の豪竅をもって、通身に箇の疑団を起こして、箇の無字に参ぜよ。昼夜提撕して、虚無の会をなすことなかれ、有無の会をなすことなかれ。箇の熱鉄丸を呑了するが如くに相似て、吐けどもまた吐き出ださず。従前の悪知悪覚を蕩尽して、久々に純熟し、自然に内外打成一片ならば、?子の夢を得るが如く、ただ自知することを許す。
〔それには、頭のてっぺんから足の指先まで「この、無とは何だーッ!」と疑問のかたまりとなって、全身全霊で「無」字を拈提し、「無」字になりきっていくのだ。昼となく夜となく拈提する。老荘でいう「虚無」の「無」でもなく、有無の「無」でもない。ちょうど、熱い鉄の丸薬を飲み込もうとしても飲み込めず、吐き出そうとしても吐き出せないようなものだ。知識・経験からいったん離れて、妄想・煩悩を滅していくならば、時機が熟して内外打成一片(無字と一枚・自他一如・空・無)となり、言葉にはならないけれども、確かにはっきりと自覚できるだろう。〕

驀然として打発せば、天を驚かし、地を動ぜん。関将軍の大刀を奪い得て、手にいるるが如く、仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭に於いて大自在を得、六道四生の中に向かって遊戯三昧ならん。しばらく作麼生か提撕せん。平生の気力を尽くして、箇の無字を挙せよ。もし間断せずんば好し法燭の一点すれば、すなわち著くに似ん。
〔突然このような境涯が開けてくるならば、驚天動地。関羽の青竜刀を手に入れたように縦横無尽、自由自在。あるときは仏となり、またあるときは祖師となって良いの悪いの、好きだの嫌いだなどと、とらわれる事もなくなり、泣くも笑うも怒るも、何のこだわりもなく自由自在になる。それでは、どのように拈提しなりきっていけばよいのか。それには、平生の気力を尽くして、この「無」字を拈提するのだ。もし間断なく拈提するならば、ついには法燭に灯がつくように、無字三昧の境涯が得られるだろう。〕

  頌に曰く・・・則に対する漢詩表現
狗子仏性、全提正令。
わずかに有無にわたれば、喪身失命せん。

頌に曰く
〔狗子仏性、全身全霊で「無」字を拈提せよ、そこに少しでも有だの無だのと思慮分別心がでたら、すべてが台無しになってしまう〕


以上が実践的に意訳してみたものです。東京禅センターでは公開講座以外にも、禅入門ワークショップなど実際に坐禅を体験することが出来ます。ただ、今のところ公案の修行はしていませんので、「無」字を数息観、あるいは日常生活に読み替えて実践していただければと思います。よろしければどうぞご参加ください。有難う御座いました。

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