東京禅センター 平成18年度第6回公開講座 NO.24

【 坐禅之捷径(ざぜんのはやみち)-2-松竹 寛山
平成18年11月18日


 皆さんこんにちは、当センター主任の松竹です。前回は円覚寺管長・釈宗演老師の推薦の言葉、緒言、坐禅の目的をみてまいりました。今回は坐禅の方向、坐禅の仕方、坐禅の心得ということで坐禅の捷径をみていきたいと思います。

【 2 】 坐禅の方向

 坐禅の修行には心の方向(方針)というものがある。この方向というものは非常に大事なものであり、この方向が間違っていると、東へ行こうとしているのに、西へ向かっているようなもので、いつまでたっても東へ行くことができない。さて、この間違った方向の向け方を次に示す。
1)  まず、坐禅は精神を静めるためにするものだ、と思っている人がいる。もっとも、儒道にも静座があって精神を静めるためにしている。禅門の坐禅はそれだけに限られるものではない。精神を静めることに方向が向いていると、坐禅のときにわずかに妄念(分別心・執着心)が静まるとそれで良いと思ってしまう。この「良いと思う心」が間違った認識である。結局、時々、妄念が静かになるだけのことである。ちょうど、一日中借金取りに責められているものが、夜になって一時的に解放されるようなもので、その時は楽になったようでも、また翌日になると取立てが始まる。これでは、一生涯本当の楽を得ることは出来ないのである。
2)

 また、「空」になるのが悟りだと思って、空になろうなろうと方針を向けている人がいる。たしかに、お経にも「空」という字は方々に出ているのであるが、仏教の「空」は大いに意味のあることなのだ。たとえば、目の前の虚空が「おれは虚空だ」などとは決して思ってはいない。この、「思っていないそのまま」が真の「空」であって、空が空を見ているような空があろうはずがないのである。人間の仏性もまた同様で、おれは仏性だの、おれは空だのと思ってはいない。この思っていないのが生まれついての本体である。そして、この本体から一切の知恵分別も発露して日用(日常)万事に自由自在となるのだ。この、本体を放り出して妄識(間違った認識)の分別でわざわざ「空という物」をこしらえて、そのうえにまた空になろうなろうと心を起こしてゆくのだから、ますます妄識は盛んになって、百年たっても真識(悟り・正しい認識)に入ることができなくなってしまう。また、かりに空になったとしても結局、催眠術をかけられたようなもので、術を戻せば元の木阿弥なのである。もしまた、「何も考えない」「何もない」というような空になったのが悟りであるならば人間は毎晩一度は眠りについて空に入るから、毎晩一ぺんずつ悟りが開けそうなものであるが、悟りは「空な物」ではないから空になったから悟るというわけにはいかないのである。

    仏にもなりかたまっていらぬもの石仏らを見るにつけても
       (仏も石のように固まっていては、何の役にも立たない)

3)  また、師家からいただいた公案を考えて当てるものと方針を向けている人がいる。身体は坐禅しているように見えても、腹の中は妄念ばかりで、「ああでもない、こうでもない」と全身が妄想のかたまりになっている。これを日用のひまつぶし坐禅という。妄想分別で当たるものなら煙草を吸いながらでもできることである。坐禅するのは無駄なことだから、ゆっくり考えられるトイレで考えても良いように思うけれども、それは決して考えて解決できるものではない。
4)  また、世の中の煩雑なのを厭って方針を仏法に向けて入る人がいる。これは、自分の厭世主義を解決するために仏法に逃げ込もうとしているのである。これは、坐禅の本当の志(目的)となるものではない。なぜならば仏法は広大なもので決して厭世主義ではないからである。
『維摩経』に「諸々の煩悩是れ道場、如実を知るが故に」(煩悩は真実を知るための道具である)とあり、六祖大師云く「仏法は世間にあり、世間を離れて覚するにあらず。世を離れて菩提を求むるは、あたかも兎角を求むるが如し」(世間を離れて悟りを求めても、土台無理な話である)といってあり、「法華経」には「三界は安きことなし、猶火宅の如し」(三界を輪廻して不安や苦悩が尽きなのは、あたかも炎〔煩悩〕が燃え盛る家のようである)と説き、『選択集』では「一切衆生、根性不同にして上中下あり。その根性に随って、仏みな勧めて専ら無量寿の名を念ぜしむ」(それぞれ、上中下根の性質を備えており、その人の性質やその世界の中で願をかけ、阿弥陀仏を念じている)とある。これは、仏法の広大なところで役人は役人の仕事が仏法、商人は商売が仏法、百姓は農業が仏法、僧侶は法事が仏法この他、ありとあらゆるものが仏法なのである。つまり、仏法は何か「こうという固まったもの」ではないのである。ということは、厭世をもって仏法の主義とする理由はないということになる。

 厭世ということについて一例を挙げてみると、男子では西行法師(北面の武士佐藤義清の後身、歌僧)、蓮生坊(熊谷直実の後身、法然によって出家)の類。婦人では了然尼(葛山為久の娘、東福門院に仕え、のち白翁について出家、泰雲寺に住する)、虎御前(曽我十郎と契った遊女、のち尼となり善光寺・高麗寺に住する)などがいる。
 あるいは、@一事業をなし終わって仏門に入る、A主・親・夫の供養のために遁世する、Bその身の本文を全うするために世を離れる、C衆生済度の慈悲心から脱俗して仏門に入るもの、Dあるいは自ら世の無常を感じて仏門に入り衆生済度に力をつくすもの、Eあるいは、悪事悪業を犯したものが一心に懺悔して償いのために遁世する、などがある。
いずれもそれぞれの理由があってのことで、楠正成公(明極楚俊に摂津の広巌で参禅)は大悟徹底の方であるが、一生忠君の本文を尽くされたのは楠公の仏法。北条時宗(無学祖元に参禅)が元の使いの首を切って宸襟(天子のみ心)を安んじ奉ったのは時宗の仏法である。
 仏法中に厭世主義は決して含まれてはいない。たまたま厭世のように見えるのは、「迷いの世界を厭って悟りの世界へ出よ」ということで、もともと一つの世界なのである。
 何の理由もなく世を恨み愚痴をこぼしたり、または慢心などから起こってくる厭世心は自分自身の執着から起こるので、たとえ一人山林に入って世を避けるとしてもこの執着に邪魔されて、結局本当の坐禅に入ることはできないのである。

 以上、挙げてきたところのものは坐禅をするにあたっての方向の間違いの例である。
方向が間違っているとせっかく坐禅をはじめてもその功徳を体験することができない。また、かえって悪くなってしまうことにもなる。であるから、その方向を真直ぐにして知恵の完成を目指すのが最も大切なことである。それでは、本当の方向は何であろうか。それは、今まで述べてきた間違いを取り除いてしまえばそれが真の方向というものになる。真の方針は公案ひとつである。すなわち「公案になりきってしまう」のが真の方向である。尚このことは、あとの用心のところと照らし合わせてみると、よくわかることである。

【 3 】 坐禅の仕方

 最近、在家の人で坐禅をする人も増えてきたが、多くは座布団の上を公案の考え場所と勘違いして、何でも考えて当てればいいものと思っている。皆腕組みをしてうつむいて考えてたり、坐禅の仕方などお構いなしで坐っている人もいる。そもそも坐禅は考え事ではない。一則の公案を問題として取り組み、自己を究明する場所なのだ。坐禅の方法を知るか知らないかでは、工夫上大いに遅速損得に関係するので、次に坐禅の仕方をお話しする。

1) まず、布団の上へ坐ったら右の手で右の足を取って左の股の上へのせ、それから左の手で左の足を取って右の股の上へのせる。そこで両脚が組める。これを結跏という。この時には足へ直接手をかけてはいけない。着物のうえから扱うこと。これは、足は地面を歩くものであるし、手は神仏を拝むものであるということからである。それから、左右の手をあお向けに重ねて親指の腹と腹とをあわせて臍の辺りへしっかりと押しつける。右の手を下にして左の手を上にする。すべて、右を「行」に取り左を「知恵」に取ることで、左をもって右をおさえるようにする。そうして目を大きく開けすぎないようまた閉じないようにして、三尺以上先を見ないようにする。これは三尺先を見るという意味ではなく眼をキョロつかせないようにするためである。また目を閉じれば妄想が強くなるので、目は開いているほうが良い。口は結んで舌は上顎へ当てて無声で公案を拈じてゆくのだ。
2) それから、背骨を真っ直ぐに押し立てて、下腹を少し突き出すようにして、鼻と臍と対し耳と肩と対すといって、定規をあてれば真直ぐになるようにする。頭のてっぺんから長い大きな釘をさし通したようにからだを真っ直ぐにかまえる。息は鼻から細く出入りさせて荒い息をさせないように、またことさらに息に意識を向け過ぎないよう、公案の方へ十分心を入れて、息は自然に公案とともに出入りするようにする。意識しすぎて息で練る気でいると公案と息と二つになってしまう。少しも息に気をかけずに、ただ公案に力を入れて下腹へ練りこんで、尻の穴をぶち抜き、床板をぶち抜き、大地をぶち抜いて、地軸のどん底までもぶち抜く心持でしっかりと練りこむのだ。息を無理に長くつめていきむのは良くない。息には力を入れないように、公案にしっかりと力を入れてゆく。これが坐禅の仕方である。また、数息観といって、公案なしで息を数えるやり方もあるが、これは公案を工夫しない時のやり方である。
3) 次に、経行がある。これは一?の線香を一坐とすれば、その内一寸ほど残してこの間に経行するのだ。経行とは立って堂内の周りを歩くのである。この時は公案を胸にあたためつつ起居動作を行なう。また、叉手当胸は、両手を重ねて胸へ当てて歩くのだが、これもまた右の手を下にして左で右を押さえるようにするのである。そうして立つときも坐るときもグズつかないようにスッと立ってスッキリとやらねばならない。そして、スッと立ったらすぐに歩き出すのである。この歩き方は耳へ風の当たるくらい早足がよい。また、曹洞宗のように一息半歩(一呼吸で半歩進む)といってごくごく静かに歩かせるやり方もある。線香一寸たち消えたら、またもとのとおり坐って続けていく。これを禅堂では直日(禅堂の総取締役)が鐘(引磬)を鳴らして先導する。独りで坐るときは、前述のことを踏まえてやればよい。
また坐中に足の痛くなることがあるが、そのときは片足を下ろして半跏にする。この半跏も左の足を上へあげておくのが作法であるけれども、傷むときにはどちらを上にしても良い。痛みが止んだら元のとおりに組む。また、小用にゆくのは経行のときに行き、坐中には決して立ってはいけない。
4)  また、坐禅には動静の二境がある。単布団の上の坐禅は世間の仕事を離れて一室へ籠ることから静中の修行という。また、朝から晩までの日用の上を動中の修行という、これは日用の境界の中で公案を拈提するのであって、まず用事にかかった時はその用になりきって勤め、チョッと合間の時間ができた時はすぐ公案を拈じるのである。たとえば、煙草を吸っている時は合間の時間であるから、妄想を繰り出さずに公案を拈提するのである。これを動中の工夫という。この動中で公案相続した力を静中へ移し、静中で公案三昧に入った力を動中へ移し互いに錯綜して修行を進めてゆく。これを動静の二境という。しかし、動中には、習慣的に妄想する癖がついているから、すぐには公案になれないものである。そこで、静中に経行することによって訓練するのである。この経行中の公案が即ち動中の工夫というものであり、静中にあって動中の下慣らしをするのであり、動静二境の中で双方を助ける仲立ちになるものである。また、経行は気血の運動を促すためだと思っている人もいるが、それは本来の目的ではない。

 坐禅の仕方である。これを知らずにただ坐っていると工夫上大いに無駄なことであるから、お話をさせていただいた次第である。

【 4 】 坐禅の心得
 
 坐禅弁道する人が常に心得ておかなければならないことがいくつかある。

1) まずはじめに、老師から公案をいただく時は老師に向かって三拝をして、それから少し坐をすすめて公案をいただき、三拝をして禅堂へ戻るのである。その後、参禅をする時は三拝をして、公案を述べ、自分の工夫した見解を提示する。それから老師の垂示を受けて、三拝をして下がるのである。これは参禅のたびごとに行なう作法である。
2) 社会的地位の高い人などで三拝をしにくく思う人もあるかもしれないが、これは作法であり社会的地位などにはまったく関係がないのである。なぜこのようにするかといえば、平常は五分五分の平等な人間であるけれども、老師が参禅を受ける時は仏の代わりであり、そのままが仏であるから、三拝することになっているのである。
3) また、師弟の関係を結んだ以上は、その師を「信じること」が修行の上で最も重要なことである。世間の学問や芸術でみると教師と生徒が親しく友人のようになっていても、その内容は伝えられる。しかし、坐禅は心の修行であるから、信が薄いときは到底伝えることはできないのである。信といっても口の先でお世辞を言ったり、特別扱いにするというわけではない。ただ、心中に深く信じて疑わないということである。一生懸命に努力して見解を持って大丈夫と思って参禅しても、老師の活眼でまだ届かないと見れば許しはしない。このとき、老師を疑う気持ちがあると、決してそれより先へ進むことは出来ない。ここに信がいるのである。
老師の一言一句を聞いて、そのとおり正直にするからどこまでも進むことが出来る。もし、心に疑うものがあると、「自分は十分にわかっているのに老師がわざと許してくれない。」「もう許してくれなくても良い、自分にはわかった」などと、自分の免許の独りすましで、偽物を握ってよい気になっているというのが、一般に知識人・学者に多くみられる。ここにおいて信じる心が薄いと老師の言うとおりに辛抱できないのである。また悪辣(手荒い)な老師の手にかかる時は、打たれたり、踏まれたり、蹴られたりとそれはひどい目にあうので、信が薄いと老師が無理難題を与えているのだと思ってしまう。ところが、決して無理難題ではないのだ。ただ、その老師の胴腹(本当の意図)を理解することが出来ないだけである。
黄門光圀公も「主・親は無理なるものと思え」と言われている。立場上どうしても無理難題のように思ってしまうのである。師弟の関係も同様である。たとえ無理難題に見えても、また打たれても踏まれても、あくまで心に信を置いて、ソックリからだをうちまかせて、命がけで骨を折るのだ。そうさえしていけば、必ず本当のところへ突き当たるのである。また、師弟の関係を結んだ以上は、その師を心に深く尊むことが重要である。世間の学問・芸術でさえ、天地・国王・父母・師と並べて上四恩の中へ数えられてある。ましてや天地同根・神仏同体の位地にまで教導してもらう本師なのだから、尊ばねばならないのである。これもまた形の上で恭敬を尽くすばかりが趣旨ではない。内心に深く尊むのである。
このようなことから、信じることのできない老師ならば、初めから師弟の関係を結ばないことである。古人も、「三年学ばずして師を選べ」といっている。師を信じる信じないということは、悟りの開ける開けないということと密接な関係がある。
4) それからまた参禅のとき、自分の見解が届かないで老師にダメだといわれると「それならこれはどうでしょう」と、すぐにその場でやり直しをする人がいる。商人が客に品物をみせて「それがお気に入りませずば、こちらの品はいかがでしょうか」というのとはわけが違う。参禅のやり直しは最も礼を失したことである。これが習いごとなら、その場で何度やり直しても差し支えはないが、これは習いごとではないのだから、一度見解を呈するときはその見解がその時の修行者の境界である。境界が届かないから老師からいけないといわれるのである。許されなかったからといって、すぐさまその場で言い直して境界のやり直しをするということは、所詮無理なことである。よって、その場で参禅のやり直しをすることは作法として許されていないのである。
5) また禅堂においては、坐禅中に下見とか随坐とかいって、しばらく坐禅を休息することがある。在家の人には全く規則というものがなく、朝も早く出ようと遅く出ようと、午後に出ようと自由で煙草も吸える。それで、随坐というと、坐禅はもちろん修行の心まで休息させてしまう。そして、世間の雑談、他人の品評、ペチャペチャ話を始めるから、せっかく前の坐で集中し練って来た腹がだいなしで崩れてしまうことになる。修行のためには非常にもったいないことである。随坐も煙草も結構ではあるが、その随坐中できるだけ話をしないようにして、心中に公案を拈提しつつ休息するのだ。そうすると、その次の坐で早く公案に入っていけるのである。結局、随坐の時に心も身体も自由に開放して良いように思っているのは心がけが間違っているのである。
6) また、ここに動中の修行に大事な心得がある。それは、それぞれ仁義忠孝の心にそむかないようにすることである。仁義忠孝は一切の良い行いの大本であり、人間本来の正しい考え方である。即ち仏心の光明(働き)であり、名をかえて言えば宇宙の真理である。しかも坐禅の修行はこの仏心を磨きだすのであるから、この心に蓋がしてあっては開くことは出来ない。せっかく坐禅で少しずつ磨きをかけても、普段から勝手気ままに妄想を起こして、蓋をしてしまうので開けることができなくなってしまう。もっとも忠孝は人道であって、坐禅修行には拘わらぬように思えるのであるが、動中・静中において仏心はひとつで、その一つの仏心に備わっているものであるから、この理に背かぬように心掛けてゆくのが即ち仏心を呼び起こすひとつの捷径ということになる。
7) それからまた「悟り」という名目について話がある。一般に坐禅をする人が、悟りということを茶漬飯でもカッコムようにわけもなくペラペラと喋る者があるが、この悟りということは容易に言われるわけのものではない。悟りというのは自己の法身を本当に悟ったのが悟りである。一則の公案、無字でも隻手でも、この法身を悟るについての道具であるから、その法身の片端がチラとでも見えれば、その一則は一時よしとして、後の修行でおいおいたしかめてゆくのである。しかるにわずか法身の片端をチョイとでも見ると、徹底悟ったような気になっておれは悟った解ったと、直に悟りの名をかつぎ出して誇らしげに言い立てるなどは、はなはだ心得違いなことである。
しかし、法身の片端を見たのがまるで悟りでないというわけではない。確かに悟りの区域の中へ入ったには違いないが、法身をまる取りにしているわけではない。『楞厳経』に「理はすなわち頓に悟る、悟りに乗じて併せ銷す。事は頓に除くに非ず、次第に因って尽くす」とあって、この理(理論)と事(実際)とが円成して始めて悟りの名がつけられるのである。もっとも上根の人ならば一超直入如来地といって初心の時、アッという間に正覚を成ずる(悟りを得る)ということもあるが、それは過去の祖師方のことである。
人間の根気が衰えてきた末世の今日にあってはほとんど稀であって、まったく無いといってもいいくらいなものである。今日、通常の人が透関したというのは、まず悟りというものの土台が出来ということであって、まだ柱も立っていないのである。築造が出来て住むことが出来るまでにはなかなかいくものではない。しかし、土台は据えたので、その場を指して大悟と区別して「省発」というのである。省発も大悟も理から言えば一つではあるけれども、我々のような修行者としては「省発とは言っても、悟りという名は遠慮すべき」であろう。
7) また、もうひとつ最も大事な心得がある。それは坐禅修行にかかった以上は「必ず悟れる、きっと出来る」と疑いなく安心してかかることである。ここに初めから決心のついている人なら必ず悟ることが出来る。これが精神(心)の作用というもので、出来るだろうか出来ないだろうかという疑いを持って、心が二途に渡っていては所詮開けるものではない。また到底自分には出来まいと思ったら永遠に悟ることは出来ないだろう。またきっと出来ると心が感受したならきっと出来る。決してこれは嘘ではない。本当の話で、これが坐禅工夫する人の一番大事な心得である。まだこの外にも心得種々あるが、この辺にとどめておく。

 以上が4、坐禅の用心、まででした。次回は最終回で【5】坐禅中の境界【6】坐禅の用心【7】工夫の用心【8】参禅の用心【9】坐禅の捷径 となります。本日は有難う御座いました。

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