東京禅センター 平成18年度第7回公開講座 NO.25

【 坐禅之捷径(ざぜんのはやみち)-3-松竹 寛山
平成18年12月16日


【 5 】 坐禅の境界

 坐禅中にはいろいろな境界が起って、坐禅に対する確固とした志がへし折られてしまうことがある。そのうちで最も心を混乱させるのは妄想である。この妄想の剛強なことこの上なく、古人も酔象や四蛇、虎狼、あるいは馬猿にたとえてあって、なかなか手に負える代物ではない。これを退治するものはただ、勇猛心(強い意志・気持)あるのみである。この勇猛心というものは八万四千の煩悩・見惑・思惑の勢力よりもまた百千万倍強いものである。これをもって妄想を消滅させることは、大海の一泡を消し、二葉の小草をひきぬくよりも容易なことである。しかしながら、この勇猛心が弱ければ妄想に勝つことは出来ない。妄想に勝つことが出来なければ、いつまでたっても悟ることは出来ないのである。これはただ、修行者の坐禅に対する一心の強弱によるのであって方法(やり方)の問題ではない。

 次に、眠いという感じがおこる。これはみな、魔境(修行を妨げるもの)というもので、妄想も足の痛いのもみなこの魔境である。しかも、この睡魔がさしてくると、修行心は恍惚となり、公案は有るか無いかの状態になって、夢か現かわからないゴチャゴチャの状態になり、五里霧中の境界になってしまう。しかし、まだまだ大変な魔境がある。倦むということ、つまり坐禅に飽きることである。坐禅を取り組んでいるといつかこの倦魔がさしてくるのだ。この倦魔が襲ってくると、知恵も欲も願心も何もかも挫けて、勇猛心さえも萎えてしまう。ここで、願心を立て直すことはなかなか容易なことではない。坐禅に対する一心を萎えさせずあらゆる強い魔を払ってしまうのは、ただ一念の作用であって、また一心の強弱によるのである。

 またここに、一種特別な境界がある。公案三昧に入っている時、突然場内が振動して大地震で揺れるように見えることがある。あるいは、目の前に2メートル四方の大きな穴が開いているように見えたり、知らない老人が目の前に坐っていたり、金色の仏が見えたり、光が輝くのが見えたりと、実際にはありえないような境界が現れることがある。しかしもし、このような境界が現れても驚くことはない。これも魔境なのである。結局、一種の心の作用(錯覚)であって不思議なことでもなんでもないのだ。ゆえに、どんな境界が現れてもそんなことにはとらわれないで、工夫精進すれば魔境は消え去ってしまうのである。もともと、虚妄なものであるとわかった上で、いちいち取り合わないことが肝要である。

 また、坐禅をして定力がついてくると、からだの中で脈の打つ音が聞えたり、頭や胸の脈が聞えることがある。また、両肩で血が通う音や下腹の脈がドーンドーンと聞えたり、両足からかかとの脈音までハッキリと聞こえることがある。あるいは、目の前の線香の灰の音が聞えたり、線香の立つ音がジリジリと聞こえたり。また、その灰の落ちる音については、金の上に落ちたときにはチャリと聞こえ、木の上に落ちるときはバタリと音がし、灰の上へ落ちた灰はバサリという。それぞれが違った音ではっきりと聞こえるのである。これらは、定力の効果が現れてきた証拠である。このような境界は色々とあるのだが、こういう境界を得たときはうれしいという感情がおこる。このうれしいのが即ち魔境であり、みな妄想である。たとえ、どれほど素晴らしい境界が現れても、みな定力がついてきた結果にすぎないのであり、それは悟りでもなんでもないのである。だから、どんな境界が現れてもそれに取り合わないで、坐禅三昧に入り一心に進んで退かないのが修行の眼目である。

 また、この他に様々な魔境があるが『楞厳経』には50種類の魔境が説いてある。いずれにしてもすべて妄想の為すところであるから取り合わないことが重要である。

【 6 】 坐禅の用心

 用心とは心を用いるということであるが、坐禅は用心しないのが用心である。しかし、坐禅をする人は心を用いて坐禅するから結局埒があかないことになるのだ。

 まず、たいがい坐禅をする人が空になろうなろうと心を用いている。これが第一間違いである。空になろうと思っているからいつまでもなれないのである。例えばここにご飯がある、この飯をどうかしてなくそうなくそうと睨みつけているうちは、いつまでたっても無くならない。そうして、考えれば考えるほど無くならないのだ。まだ無くならない、まだ有ると睨みつけているうちに、いつか日が暮れてしまう。無くそうとも、無くすまいとも思わずただ、箸で運んで食べてしまうといつの間にか無くなってしまう。

 坐禅もそのとおりで、空になろうなろうとからだをにらみつけているといつまでたってもなくならない。一則の公案を提撕して三昧に入ってみると、空になろうともなるまいとも思わず、いつか自身を忘じてしまう。この忘じたところが空だと思うか。それはまだ本当に忘じていない前の分別である。本当に忘れきったところは空でもなければ不空でもない。空とも不空ともなったともならぬとも思わないところが本当で、仮に名づけて真空という。一般に自分の身を空にしてしまって、その空になったところを自分で見る気になっている。そこで自分で自分をにらみつけて汲々としている。これが心を用いている、というということである。これは、明らかに見当違いである。大慧禅師云く、「もし心を存して破処(無念)に在かば、則ち永劫にも破する時あることなし」(無になろう無になろうと思っているといつまでも無になれない)と示されている。

 また公案三昧に入る時にも、なろうなろうと心を用いるから三昧にならないのである。三昧とはなりきることである。公案のほかに、別に三昧になろうなろうという妄想を担いでまわるから、妄我と公案とがいつまでも二つになってますますなりきることができないのである。自分がなりきろう、自分がなりきろうと思う、この自分がを放り出してただ公案にさえなっていればそれでいいのである。無字も隻手も自分が拈提していると思うから、いつまでも一つになれない。そこで公案がチョイチョイゆるんでしまう。公案がゆるんでしまうとすぐに妄想が入れかわる。この時また妄想を引っ込まそうと思う。この思うものが即妄想であるから、妄想と妄想とで競争しているのである。そして、その奥の院に「自分が」という妄我が凛然と主位にあるものだから、到底公案になることはできない。これはみな心を用いて坐禅をするということである。

 そこで坐禅中に、もし妄想が出たら、すぐに「州云く『無―ッ』」とグッと強く練りこむのである。そうすると、妄想は自然に引っ込んでしまう。それからまた出る、出たらすぐに「隻手何の声ぞ」とグッと練りこむ。はじめのうちは公案と妄想と入れかわり立ち代りしているが、これを押し進めて行けば、自然と公案三昧に入ることができる。これが用心なしの用心というもので最も大事な用心である。公案の拈提の仕方が弱いから間断ができるのである。公案がしっかりと拈提できていれば妄想のために追い出されることはないのである。それからスッパリ三昧に入り込んでしまうと「宝所近きに在り」で近い将来には悟りが開けるのである。

 法然上人の歌に
         妄念の起らばおこれと振り捨てて念仏申すが手にて候

 この歌は、この無用心の用心にピッタリしているので紹介させて頂いた次第である。このとおり正直にやってみて欲しい。必ず効果がある、間違いはない。

【 7 】 工夫の用心

 工夫とは、今では考えるという意味で使われている。しかし、坐禅でいうところの工夫は考えるという意味ではない。この字は職人の男という字で、職人が仕事をしている様子をいったものである。例えば職人が手斧で木を削る時には、チョッと誤れば自分の向う脛を削ってしまうから少しも油断はならない。また、火消し人足が足場丸太の上を渡るときなどは、一足踏み外すと真っ逆さまに落ちるので油断はできない。この油断のないところを工夫というのである。この意を取って宗門の上にあてて使っている当て字である。

 坐禅の工夫というのは布団の上に結跏趺坐して公案を拈提して少しもわき見をせず、油断のない心の状態をいう。そこで、工夫の用心というのは、妄想を出すまいと心を用いることではない。妄想を出すまいと思うのがすでに妄想なのだから、出すの出さぬのという妄念を振り捨てて、ただ一心に公案になりきっていく。これが用心なしの用心というもので、公案工夫の本当の捷径である。

 この頃、公案工夫するにあたって、工夫というのは考えることと思って、単布団の上で首をかしげてしきりに妄想を繰り出して考えている人も多いのであるが、元来考えて当てるものではないのだから、どこまで考えても埒はあかないのである。これは、工夫に妄想を用いるということで、用心ということの見当違いである。そうは言っても、考えなければ参禅に行って見解を呈することができないというかもしれない。ここが重要な点であるが、公案は画に描いてあるようなもので、意識的に考えて当てるものではない。見て知るのである。

 見るといっても肉眼ではなく心で見るのである。ひたすら公案になりきって純一に工夫していると、肉眼でものを見るように、自ずからその公案が心の鏡に映ってくる。その見たとおりを老師に呈してその可否を決めてもらうのが参禅である。それが、その公案を照らす本心を妄想で蓋をしてから答えを作って持ち出すから、本当の答えとはくい違ってしまう。修行者が早く悟れないのはこのためである。

 というわけで、工夫の用心は、心を用いないのが本当の用心で、少しでも心を用いるようなことがあったら、すべてが妄想であり坐禅工夫の損にこそなれ、何の益もないのである。こういっても、なかなか納得できるものではないだろう。また、かえって妄想分別がなくなってしまうと心細く思われる。これは、妄想分別することが当たり前になっているからで、すべての学問は妄想を肥やしており、妄想分別が習慣となっているからである。しかしながら、今ここで言うことは決して嘘ではない、方便でもなく本当の工夫の仕方で悟りの捷径である。

 これに従って工夫するならば、すなわち早く悟ることができるのだ。過去の祖師方も実際このように修行してこられたのである。実際経験上のことであり、決して間違いのないことなのである。

【 8 】 参禅の用心

 参禅とは、老師に対して自分の見解を呈するということであるが、これについて用心の仕方がある。初心者で坐禅工夫はしていながら、とかく参禅にしり込みしてしまい老師の前に出られない人がある。なぜかというと、なんだか恥ずかしいような、決まりが悪いような気がして萎縮してしまうのである。もともと、道に志して坐禅をしているのであるがいざ参禅となると萎縮してしまう。見解があいまいであることもあるがしっかり骨折って見解を立てて参禅に萎縮しないように、たびたび参禅するとやり方もわかってくるのである。

 また、一辺に良いことを言おうというという名聞心から萎縮する人もいる。また、つまらない答えをして笑われるのが嫌で、自分くらい学問がありながら、まだわからないのかと思われるのが格好悪いとしり込みをする。あるいは、参禅したからには与えられた公案を透らないと恥ずかしいとしり込みする人もいる。こんなところへばかり心を用いてしまうので、いつまでたっても埒があかないのである。このような傾向が女性にあるかと思うと、かえって今時の女性は活発であり、平気で参禅している。むしろ、学者などの間にこの萎縮主義がみられるのである。実にもったいない話である。はじめから命中するものではないことは当たり前である。わずかな名聞心のために萎縮するようでは、大道の修行ができるものではない。

 漢の韓信は漁夫の辱めに耐えて股をくぐったのである。ましてや、自分の師弟関係を結んだ方に対して自分の成熟の度合いを見てもらうのに、何のはばかるところがあるだろうか。これが一つの用心である。

 また、逆に坐禅にはろくに骨を折らずに参禅ばかりしたがる人がいる。いつもあいまいな見解を持って老師を煩わせるのは第一に礼を失している。たとえ、見解は届いていなくとも自分にはもうこれしかないと、しっかりと見定めた見解を持っていくのが参禅の用心である。中途半端な見解ならば、はじめから参禅しないことである。結局、志が足りない。法に対しても勿体ない、老師に対しても失礼である。中途半端な参禅弁道ならばやめてしまったほうが良い。法に対し、老師に対し、礼を失した振る舞いのない様につつしみの心を持ってやることが一つの用心である。また、実際に参禅するときには、唯一つ自己究明のみで、たとえ老師に打たれようが、踏まれようが、蹴倒されようがすべて老師にお任せするのだ。

 以上は、参禅についての心の用い方で、別に難しいことでも何でもない。法を求める志が強ければ自ずとできる事であるが、初心者のために注意しておくのである。

【 9 】 坐禅の捷径

 さて、これから捷径の話であるが、悟りとは因縁と骨折りとによって遅速がある。結局、骨折りができない人はそれがすなわち因縁というものであり、本当に骨折りができる人は因縁の良い人であるといえる。分別してはいけないということは知っているものの、どうしても分別に傾いてしまう。このような因縁を一転するものは骨折りにかかわっているのだ。結局、悟りの遅速について主となるものは、まずは骨折りにある。

 その骨折りについても、志の方向が曲がっていると無駄な道を歩き回ることになるから、向こうへ行き着くのが遅くなる。方向が真直ぐなら早く行き着くのである。それを、分別して公案を当てる気になっていては、方針が斜になっているから遅くなってしまう。しかしながら、いつも使っている分別心を手放すことは思い切っていかなければなかなか難しいものである。それゆえに、どんなに本道の話をしても不安に思って「いや、あれは方便である」とか、「知恵を捨ててわかるものか」とか勝手に分別して、どうしても回り道をしてしまう人が多いのである。

 しかし、いずれにせよ悟るときには、本道に出るのであるから、初めからその道へ方針を向けてかかれば、早く向こうへ行きつくのである。それにはもろもろの妄念雑慮を尽く捨てて離れて公案三昧に入るのである。たとえ正しい理屈であったとしても実際の修行上はすべて妄想塵ほこりであるから、チョッとでも念が動いたらすぐに公案で打ち消すのである。臨済禅師が「仏に逢えば仏を殺し、祖に逢えば祖を殺し、乃至殺し尽くして、始めて解脱を得ん」と示されたのも、即ちこのことである。

 「州云く『無ー』」とただ一心に拈提していくと、暫く妄想の治まる時がある。するとこれが公案になりきれたのだなどという思いが出る。それが即妄想なのだから、そんな念が起こったらすぐに「州云く『無ー』」と打ち消していく。するとまた公案になる。この時また思う。公案にはなりきったがこれだけでどうして悟れるだろうとチョッと出る。これは悟りを考えたくなる妄念である。またすぐに「州云く『無ー』」と打ち消すのである。このように、念の浮かぶごとに公案で打ち消し、打ち消ししていくと、ついに本当に三昧に入って天地一枚となり、しかも天地一枚という念も動かないようになる。そこでスッパリ我が身が無くなって、無くなったとも思わないところへ出る。これを打成一片の位という。

 この打成一片のところへ出ると、ここが悟りの場であると思ってしまう。これまた妄念である。まだまだそこは悟りの場所ではない。この打成一片の地位を喩えてみると、厚い氷の中に閉じ込められているようなものである。上下四方、前後左右、尽く透き徹っていかにも見事なものであるけれども、我が身は氷に閉じ込められているゆえに身動きできないようなものである。この時になって、少しも退却の心を起さず、一念をも動かさずただ一心に「州云く『無ー』」と無二無三(一心)に押し込んでいくと、時節が到来して忽然として真の悟りが開けるのである。これが第一の捷径である。

 さて、これは捷径の定石というもので、このとおりで間違いのないものである。しかしながら、これにキッチリと当てはまってしまうものでもない。坐禅中に開けるか、あるいは日用煩雑の中で省発するか決まってはいないのである。十年かかって悟る人もあり、五年でやる人もあり、あるいは三年、一年、半年、七日で悟る人もあって、順序や方法には拘わっていない。捷径の定石を一心に修しているうちに、打成一片の位に至らずに忽ち悟る人もいる。これは捷径中の捷径といえる。しかし、いずれにしても目的をつけては開けないので無二無三にやるのが良い。わずか線香一本の間でも悟る人は悟るのである。

 昔、涅槃会上に広額屠児という人がいた。この人は、釈尊の説法を一度聞いただけで、忽ち一心を悟って屠刀を放下して「われはこれ千仏の一人なり」といってたちどころに成仏した。また、永嘉大師という人は一言下において悟られたのであるが、こういう人は稀であって、末世の今日にあってはまるでないといってもいい。しかし、今も昔も仏性には変わりがないのであるから、昔そのような人があったということならば、今日においても理屈の上では、無いとは言い切れないのである。

 世間では静中の坐禅を方便であると軽んじて、動中の工夫こそが本当の修行であると思っている人がいるが、これは誤解である。動中、静中の工夫は本来車の両輪であってどちらが欠けても良いというものではない。どちらか一方に偏ってしまうから間違うのである。大慧禅師云く「ただ、十二時中四威儀の内に向かって、時々に提撕挙覚せよ」。また云く「須らく熾然たる消滅の中に於いて、驀地一跳に跳出すべし」。また云く「広額屠児屠刀を放下して、便ち成仏す。豈に是れ静中の工夫をなし来らんや」。又云く「正に方寸?々の時に当たって、提撕挙覚し看よ」。『維摩経』に曰く「道法を捨てずして、而も凡夫の事を現ず、是を宴坐と為す」。又曰く「煩悩を断ぜずして而も涅槃に入る、是を宴坐と為す」。

 これみな日用動中の修行を示したものであって、さらに静中の坐禅を廃せよと言ったのではない。あるいはまた「動中の工夫の静中に勝ること百千万倍」(白隠禅師)などと示されているのは、動中の工夫が静中より難しいということであり、静中の坐禅をしなくとも良いということではない。しかも、『円覚経』に説かれた「止・等至・静慮」の三種の観法を始め、一切の経文や祖録に静坐工夫を説いていないものはない。また、伝燈の祖師方で静坐工夫を行じなかった高僧は一人もいないのである。これらのことを考えもせず、ただ頑なに静坐工夫を軽く見るのは間違いである。ましてや、このような誤解は学者などのいわゆる見識者に多く、広額屠児や永嘉大師をひき合いに出して「静中に勝る百千万倍」の「事上練磨」などというのであるが、これらの人の事上練磨はそのままそっくり「糟妄想の分別練磨」というもので、禅の修行においてはまったく価値がないのである。祖師方の本当の動中の工夫ならば、「静中に勝る百千万倍」ということもあろうけれども、我々においては定石どおり動静の二境において公案三昧にやっていくことが一番の捷径である。

 さて、最後に一言いっておくことは、悟りが開けた以上は、老師の証明ということが最も大切である。我々はどうしても独りよがりになりがちであるから、自分では良いと思ってしまう。老師がまだまだといってくれるから何とか骨折りができるというものである。到底、自分から真偽を判断することは難しいのである。であるから、「自分はわかっている、悟った」などという痩せ我慢の、独りよがりは捨て去って老師の証明を仰ぐべきである。

 さて、このように長く喋ってきたので、読者は私のことを大そう悟った人物であると思われるかもしれない。しかし、実は大違いである。私の悟りなどは芥子一粒どころではないほど、小さなものであって、お恥ずかしいものである。けれども、この味をチョッとでもなめてみると、実に有り難く、うれしくてならないから、皆さんにも味わっていただきたいと思った次第である。といって、自分が完全に出来上がってからというと日が暮れてしまうから、日の暮れないうちに紹介させていただいたわけである。私のはほんの食いかけで、チョッとかじった程度のお悟りにすぎないのである。

 古人の詞に
   うまいうまい あんばいよし おまえもひとつおあがりまし わしの食いかけを
   食いかけであまり無礼と思えども なんにもなしの味わいのよさ


 以上


 10月から3回にわたって川尻宝岑居士の『坐禅の捷径』を紹介させていただきました。現在の臨済禅すなわち「白隠禅」の大きな特徴である公案修行への取り組み方が懇切丁寧に説かれていたわけです。
 東京禅センターの「坐禅会案内」のページで老師に参禅できる坐禅会が紹介してあります。伝統的な臨済禅の修行に興味のある方は、そちらに足を運んでいただき専門的な祖録の提唱を拝聴したり、本格的な参禅に取り組んでいただければと思います。是非、参考にしてください。

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