東京禅センター 平成18年度第8回公開講座 NO.26
| 【 白隠禅師『臘八示衆』(1) 】 | 松竹 寛山 |
平成19年1月20日 |
こんにちは、東京禅センター主任の松竹寛山です。今月と来月は白隠禅師の「臘八示衆」を紹介させていただきます。臨済宗の専門道場では大摂心といって年間6回ほど一週間の集中的な坐禅週間があります。臘八大摂心は「雲水(修行者)の命取り」といわれ、大摂心の中でもっとも厳しい大摂心です。臘は臘月すなわち12月、八は8日を表しています。お釈迦様が12月8日明けの明星を見て悟りを開かれたことにちなんで、12月1日から7日間一切横にならず3時間ほどの坐睡だけで、徹底的に坐り抜くという修行です。この「臘八示衆」は白隠禅師が晩年、臘八大摂心の際に修行者に向かって話されたものです。現在では臘八大摂心になると、全国の専門道場で老師(師家)によって第一夜から第七夜までこの「臘八示衆」が雲水に対する叱咤激励の意味で解説されているのです。以下、簡単に現代語訳してみました。参考にしてください。【 朔日夜 】 朔日(第一日)夜示衆に曰く、夫れ禅定を修する者は先ず須く厚く布団を敷き、結跏趺坐して寛く衣帯を繋け、脊梁骨を豎起し身体をして斎整ならしむべし、而して始め数息観をなすべし。無量三昧の中には数息を以って最上となす。気をして丹田に満たしめ而して後に一則の公案を拈じて直に須らく断命根を要すべし。若し是の如く歳月を積んで怠らずんば、縦い大地を打って失する事有るとも見性は決定して錯らず。豈努力せざらんや。豈努力せざらんや。 第一日目の夜、衆に示して言われるのには、禅定を修行する者は、まず厚く坐布を敷いて、結跏趺坐して腰回りはゆったりとして、腰骨を起し背筋を伸ばし、身体を正しく整えることである。そうして、まずはじめに数息観をすることだ。徹底的に三昧に入っていく(無量三昧)には数息観が最も良い。気を丹田に満たして、一則の公案を拈提し妄想煩悩を払って、その公案になりきっていく(断命根)のである。もし、このように歳月をかけて怠らなければ、必ずや見性できることは間違いのないことである。さあ努力せよ、さあ努力せよ。 【 第二夜 】 第二夜示衆に曰く。楞厳経に曰く、一人道を成じて真に帰すれば、十方虚空悉く消殞すと。凡そ道を修する処、必ず護法神あり。魔障神あり。譬えば城市に人多く聚るときは賊盗亦随って聚るが如し。心願強きときんば則ち護法神、力を得、心魔動くときんば則ち魔障神力を得。是故に学道は先ず須らく大誓願を発し辞譲謙遜を専らにし、心を一切衆生の下に置き咸く皆度脱せんことを要すべし。仏祖の大道、願力無うして能く徹底する者有る事なし。譬えば射を学ぶ者の如し。一箭一箭鵠に中てんことを欲す。始め中らずと雖も、久うして已まざれば必ず其の妙を得。参学も亦復然なり。一念一念大憤志を発し、精神を抖して、須く大道の淵源に徹せんことを要すべし。是の如く念々退かざるときは一切の法理、現前せずという事なく、無上菩提猶お俯して地芥を拾うが如くならん。 第二日目の夜、衆に示して言われるのには、楞厳経の中に「一人道を成じて真に帰すれば、十方虚空尽く消殞す」とある。仏道を修行するところには必ず護法神(協力者)や魔障神(妨害者)がいる。たとえば、人がたくさん集まる場所には、自然と泥棒やスリも集まってくるようなものである。我々の心の中で、願心(志)が強い時には護法神を引き寄せ、心に魔が動いたならば魔障神を引き寄せるのである。したがって、仏道を修行するには、まず衆生を救っていくのだという誓願(四弘誓願)を起こして、控えめで遠慮深い態度を基本とし、人々の役に立つことを心がけることが大切である。仏祖の大道は願力(志のエネルギーの強さ)がなくて、徹底できる者はいないのだ。例えば、弓を修行する者は、一回一回矢を的に当てようとする。はじめは当たらないけれども、諦めないで、続けて稽古しているうちに必ず当たるようになってくる。坐禅もまったく同じことである。一念一念、大墳志を奮い起して妄想煩悩を打ち払い、大道に徹することが肝要である。このように心を積極化したならば、ことごとく現実のものとなって、必ずや見性できるのである。悟りの智恵(無上正等正覚菩提)を得ることは、いたって容易なことになるであろう。 【 第三夜 】 第三夜示衆に曰く、如来の正法眼蔵嫡々相承、是を伝灯の菩薩という。如来の正法眼蔵よく護持する、是を護法の菩薩と謂う。伝灯護法猶お師家と壇越との如し。師檀合わざるときは大法独り行なわれず。而して護法を最上となす。昔、弘法大師嘗て大日如来に祈請して曰く、誰か是れ護法の最上なるや。如来告げて曰く、弁財天に若くはなしと。是れ伝灯は第一たりと雖も、若し護法の力なきときは則ち仏法只独り行わざる所以なり。是の故に護法を最上となす也。 又坐禅は一切諸道に通ず。若し神道を以って之を云えば則ち身は即ち天地の小なるものなり。天地は則ち身の大なるものなり。天神七代、地神五代、並に八百万の神悉く皆心中に鎮坐せり。 此の如く鎮坐の諸神を祭祀せんと欲せば、神史に所謂る霊宗の神祭に非ずんば則ち之を祭る事能わず。霊宗の神祭は禅定に非ずんば之を祭る事能わず。脊梁骨を豎起し気を丹田に満たしめて正身端坐、願見耳聞一点の妄想を雑えず、六根清浄なる事を得るときは則ち是れ天地地祇を祭る也。一 の坐と雖も其の功徳鮮しとなさず。是の故に道元禅師曰く、勤べきの一日は貴ぶべきの一日なり。勤めざるの百年は恨むべきの百年なりと。嗚呼おそるべく慎むべし。 第三日目の夜、衆に示して言われるのには、釈尊の仏教の真髄(正法眼蔵)が師から弟子へと伝えられて来ている。これを伝燈の菩薩(修行者)という。また、その釈尊の仏教の真髄を大切に思って護持する。これを護法の菩薩(修行者の面倒をみる人)という。伝燈と護法は法を守る「師家(法を伝える人)」とそれを支える「壇越(布施をする人)」との関係のようである。師家とそのために協力を惜しまない壇越とがうまく手を取っていかなければ修行はできないのである。そのようなことから、護法ということを最も大切にするのである。昔、弘法大師が大日如来に祈願して、誰が護法の菩薩の中で最もすぐれているかと尋ねたところ。大日如来は弁才天(水と豊穣の女神)に及ぶものはないといわれた。伝燈は第一であるといっても、もし護法の力がないときには、仏道の修行は決して成就できない。それで、護法を非常に大切にするのである。 また、坐禅は一切の諸道に通じている。もし神道であったならばこの身体は天地を小さくしたものであるし、天地は身体を大きくしたものである。天神七代、地神五代並びに八百万の神(仏心・仏性)はすべて皆この心中に鎮座しているのである。このように、鎮座する神々を祭祀しようと思うならばそれに相応しい環境がなければこれを祭ることができない。すなわち、禅定(三昧の境)がしっかりと深まっていなければこれを祭ることができない。それには、まず腰骨を起し、背筋を伸ばして気を丹田に満たして正しく坐ることが大事である。見るもの聞くもの一点の妄想も交えないで六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)が清浄である時、始めて天神地祇(全ての神々)を祭ることができるのだ。一回の坐禅といえども功徳は決して少なくはないのである。道元禅師は「勤べきの一日は貴むべきの一日なり。勤めざるの百年は恨むべきの百年なり」といわれている。ああ、恐ろしいことだ、しっかりせにゃいかんぞ。
【 第四夜 】 第四夜示衆に曰く、数息観に六妙門あり。所謂数、随、止、観、還、浄なり。息を数えて三昧に入る。是を数という。息を数えて漸く熟すれば唯出入の息に任せて三昧に入る。是を随と謂う。十六特勝等、要を以って之を云えば数随の二字に帰す。故に初祖大師曰く、外、諸縁を息め、内、心喘ぐこと無く、心牆壁の如くにして以って道に入るべしと。内、心喘ぐこと無しとは根本に依らざるなり。心牆壁の如くとは直向前進する也。此の偈甚深なり。汝等請う。試に本参の話頭を取って牆壁の如く直に進み去れ。たとえ土を以て大地を撃ちて失する事あるとも、見性は決定して徹せざる事なけん。努力せよ。努力せよ。 第四日目の夜、衆に示して言われるのには、数息観に六つの妙門がある。それは「数・随・止・観・環・浄」である。息を数えて三昧に入る、これを「数(数息観)」という。息を数えて徐々に機縁が熟してくると、自然と出入の息に任せて三昧に入ってくる、これを「随(随息観)」という。十六特勝(イメージ法と呼吸法とを組み合わせた16種類の方法)などのやり方があるが、結局、最も重要なところは数息観と随息観なのである。ゆえに、初祖菩提達磨大師は、「外、諸縁を息め、内、心喘ぐこと無く、心、牆壁(しょうへき)のようにして道に入れ」といわれている。「内、心喘ぐことなく」とは心(腹)をしっかりと定めて、「心、牆壁のように」とは無心に突き進むことである。この偈には深い意味があるのだ。さあ、皆さん。今、取り組んでいる公案を拈提して無心に突き進んでいけ。そうすれば、必ずや見性することは間違いのないことである。努力せよ、努力せよ。 参考文献 山本玄峰著『無門関提唱』大法輪閣(1960)

以上です。今年は亥年ですが臘八大摂心も第1日目から3日目、4日目は文字通りまっしぐらに猪突猛進して山を駆け上っているところです。今思い出せば、私の場合は、とにかく八日の鶏鳴までやりぬくしかない、という気持でやっていたようです。さて、来月は第五夜〜七夜の臘八示衆です。よろしければまたお越しください。ありがとう御座いました。 講演録目次へ |