東京禅センター第3回公開講座 NO.6
| 【 水墨画の中の禅 】−雪舟の山水画− | 中島 志郎
| 平成17年6月18日 |
◆はじめに
中島と申します。今日は水墨画のお話を致したいと思います。雪舟さんの話なのですが、最初に前半は中国で誕生した山水画の流れを辿ってみようかと思います。と言いましても、歴史上随分もう失われてしまって、昔の絵は無いのですが、画論というのがあります。これは絵画の理論ということで、それを少し辿ってみます。そして、雪舟のところに話を進めて、最後は皆さんにも雪舟になったおつもりでちょっと破墨山水を描いていただこうと思っています。さて、どういうことになりますか。
◆山水 まず山水の水墨画ということなのですけれども、山水とは何ぞや、というそこから話を始めますと、「まあ、風景でしょう」という風に思われるかもしれないですけれども、中国の絵画というのは風景画ではないのですね。そもそもが、山水というのは、いわば神仙の住処なのです。神仙ですから、中国の宗教的な神様であったり、文字通り仙人ですね、神聖な仙人の住まう場所ということです。仙人の仙の字というのは人に山と書きます。山に入る、という意味なのです。これが、当然人々の憧れになりますから、絵にも描かれるようになるのです。少し時代が下って戦国から後のことですが、今度は、「逸民」、「隠逸」ですね、文字通り「隠れる」という発想が出てまいります。中国は政治の国ですから、戦乱が起こる度に王朝が倒れます。王朝が倒れると流浪の民が出たりする。政治家は節を曲げない人が多いですから、俗世と縁を切って山に入る、こういう発想ですね。これが逸民とか隠逸ということなのですけれども、この住処が山水であったというわけです。 ◆隠逸 「竹林の七賢」という言葉はご存知だと思います。七人の賢者というのは俗世間を捨てて山に入る、という発想です。中国には儒教というのがございますね、孔子様の教え。この儒教といのは、大体これは政治の理論です。政治を行う者の倫理道徳というわけですから、儒教で政治を行う。ところが、さっきのように、竹林の七賢は、俗世間を捨ててしまうわけですから、儒教でやっていられない。ではどういう思想になるのか、といいますと、これが老荘思想という、ご存知の方も多いと思うのですけれども、「荘子」ですね。いわば、自由を求める無為自然という言語られるように、俗世間を捨てて心を無為自然に遊ばせる、こういう思想が流行ってきます。結局、中国の思想は「儒教」と「老荘」という二つの構図で動いているわけです。しかも、それが局は都と山水と、こういう配置になるのですね。都の政治は儒教である、そこから逃れた人たちの思想は老荘思想だ、ということになりますね。これがやはり人々を山水に誘う原理にもなってるのですね。
それで、仏教もどちらかといえば老荘、どっちかというよりも、そもそも老荘の思想の仲間として捉えられた。もちろん仏教は出世間の法ですから、あまり世間のことにとやかくこだわらない。むしろ、それは脱俗です。俗を捨てる精神でなければいけませんから、荘子なんかの思想のほうに近い。中国の仏教はそういう形で受け入れられて行く。今この山水という絵画の成り立ちというところでも、ひとつの思想の原理が働いているのですね。中国の芸術というのは、そういう風に大変思想的、理論的なのです。これは結局、知識人というものが非常に深く関係している。士大夫といいますけれど、科挙に合格した大変優れた知識人であり、官僚であり、芸術家である、という文人です。こういう人たちが文化の担い手ですから、大変理論的な水準が高い。難しいのです。理屈っぽい。そういう人々が、やがて芸術の理論というものを次々に生み出していく。 ◆水墨画 絵画の場合にも、その山水という成り立ちをちょっとお話をしますと。山水というのがつまり人々の憧れの対象である、中国の六朝あたり、三世紀、四世紀くらいまで山水絵画というのは、そういう意味づけを持っていたのだろうと思います。
では、水墨画はどうだろうか。水墨山水というぐらいですから、墨と山水がつながるのは、これはどういう理屈だろうか、といいますと、これはなかなか難しいのです。水墨画、われわれが通常知っている水墨画というのは、これは起源を辿るのがなかなか難しい。さっき申しましたように物が残ってないのです。これは戦乱があるたびに、絵画ですから、すぐに無くなってしまう。「歴代名画記」という書物の中に、安史の乱という、玄宗皇帝のときに反乱が起こって、玄宗皇帝が蜀に避難をする。馬車いっぱいに宝物を積んであわてて避難するわけですね。反乱軍が迫って来ているので、逃げていかなければならない。そうしたら、馬車の荷台からこんな大きな掛け軸がぼろぼろとこぼれていく。有名な芸術作品が、荷台からこぼれていくのも構わないで一目散に都の貴族たちは逃げていったという、確かそういう記述があったと思います。それぐらい絵画が残るというのはまことに珍しい、難しいのです。
そんなわけで、水墨画の起源を辿るというのはなかなか難しい。だけども、例えば、正倉院なんかにも白描画というものがありますね。それは水墨画なのかというと、これも難しいですね、東洋の絵画ですから、当然墨と筆で描くわけですから、線の絵になるのですが、白描画を水墨の起源というのもなかなか難しい。
そこで、このプリントにいきます。水墨画とはこのあたりなのですが、顧ト之という、四世紀の人の画論です。この中に言葉が残っております。「凡そ画は人が最も難く、次に山水、次に馬」「台閣は一定の器なるのみ」。水墨画とは、まだ、ちょっと言い難いのですけれども、しかし、内容が面白い。画というのは、人間を描くのがもっとも難しいという意味なのですね。人が、最も難く、その次が山水である、と。その次には動物ですよね、狗馬は。最後は、建物の描写なんかは、これは描きやすいという、そういう意味なのですね。山水のお話をしながら、人がもっとも難しい、というのも何なのですけれども、ちょっとこれを覚えておいていただきたい。なかなか意味深い言葉なのです。画を描くというのは、やはり、人が一番難しいと四世紀の中国の画家がそう申しているわけです。
それから、山水は二番目に難しい、ということなのですが、次の、謝赫の六法という、これもご存知の方が多いと思います。気韻生動という言葉ですね、その起源になるのが謝赫の六法なのです。気韻生動というと、水墨山水の精髄といいましょうか、そういうお話になるところですね。しかし、もともとは動物の生き生きした様のこと、それぐらいの意味なのだそうです。画ですから、姿かたちをうつす、それが生き生きとして見えていなければいけない、というのが気韻生動の元の意味なのですね。
おそらくご存知の気韻生動とは、もとの意味とはちょっと違うのですね。これが、ある意味中国の絵画理論の発展ということになっていくのですが。水墨といえば、やがて気韻生動という、理屈になってくるわけです。 ◆唐代の文化 なかなか水墨画の登場にならないですが、さて、ここで、ようやく登場するのが王維という方です。中唐、玄宗皇帝の時代なのですけれども、この玄宗皇帝の、開元、天宝の年間(8世紀中)というあたりで、呉道子という人が登場します。この方は山水の画家として名を馳せた人らしいのですが、文字の記録があるだけで絵画は残っておりません。
それに比べると、この王維という方は実は、画家にして、詩人でもあるという、大変有名な方です。仏教にも大変縁が深い。字は摩詰というぐらいで、維摩詰、維摩居士から来ています。中国の維摩、と称せられるような詩の天才にして画家である、という方なのです。実は禅宗の成立期にもちょっと意味がありまして、そこに書いてありますように、八世紀の中頃、荷沢神会(カタクジンネ)と読みますけれども、神会の招請を受けて、六祖慧能禅師の碑銘を書いている、というなかなか重要な人です。この、荷沢神会は六祖慧能の直弟子ですが初期の禅宗が誕生する時代です。それほど王維は、仏教に帰依をしていたのです。シルクロードで必ず王維の詩が出てきますね「君に勧む更に尽くせ一杯の酒、西の方陽関を出づれば故人なからん」。王維は、この時代を代表する天才ですけれども、この辺りから、そろそろ水墨画の形が見えてくるわけです。
ずっとこの後の時代になるのですけれども、董其昌という、明末の人が南北二派論という説を唱えます。これは、いわゆる、今日の南画の概念で南画、北画という分類を立てるのです。実は日本の南画は江戸時代の黄檗系の文化ですよね。直接こういう唐代の禅とはつながらない絵画なのです。ともかく、この董其昌という方は、王維を南宗の始祖、文人画の開祖という風に書いております。これは明末の議論ですから、にわかには信じがたいのですけれども、それぐらい、王維という人は特筆すべき人であった。しかも、禅とも縁のある方です。というわけで、いよいよ水墨画が形をもって成立してくるわけです。
それから、先ほど申しました「安史の乱」という、中国政治の大変な混乱期が、その後くらいにあって唐の文化が崩れてきます。そして新しい何か、精神の運動が興ってくるのです。実を言うと、禅宗もそういう新しい精神運動の、まさにその中心にいた仏教だといっていいのですけれども、これと同時並行的に芸術の場面でも革新が興る。これが水墨画の事実上の誕生期であろうという風に考えられます。 ◆溌墨 この水墨画を象徴するようなひとつに『歴代名画記』、あるいは、『唐朝名画録』という記録がありますが、ここに「溌墨」という概念が出てきます。「溌墨山水」という概念ですね。「溌」という、「溌」というのは「はねる」ということです。「活溌溌地」という言葉があるような、生き生きとしたさまを意味する言葉です。記録には「画を作ろうと思えば、先に飲む」と書いてあります、先にお酒を飲め、と。それと、薫甘の後、酔っ払った後に、即ち、墨を以って注げ、そんな風な意味なのです。要するに、後は、手足を使って、あるいは、筆を振り回して、そうして、この薄い墨や濃い墨を撒き散らしたところで形ができる。それが山であり、石であり、雲であり、水であると。唐代の記録はこういう意味なのです。ですから、今で言うと、前衛芸術ですね。ボディペインティングみたいな、奇妙な行為なのです。これを唐代の記録は、溌墨と呼んでいるわけです。
そこから発展すると、たとえば、風狂であるとか、フウテンであるとか、そういう概念になります。これは、ある意味で「逸」という概念を考えるとちょうど良いのです。「逸」というのは「逸脱」とか、「逸する」ですから、こぼれるという、あるいは、はぐれる、という概念です。良い意味では「逸品」という概念がございますね。世間の規格から外れているのだけれども、それが実は最高によい価値だという、こういう含みもあるのですね。
中国の絵画の中でも「逸」という概念が大変重要な意味を持って来るのですが、これは八世紀後半からの禅の登場と無縁ではありません。やはり、俗世間を外れてしまった、超えてしまった、そういう存在として禅僧が描かれる、というのは、しばしば実際に禅の歴史の中にたくさん見えるわけです。 ◆宋代の画論
蘇東坡、蘇軾、という北宋の時代の人ですが、この人が、芸術理論の総まとめをしました。「逸」という概念をめぐって、次第に、中国の文化の中で「逸格」という価値概念がだんだん高い意味をもってくる。その理論を総まとめにするのが、蘇東坡、といってよいと思います。この、蘇東坡もまた禅と大変縁の深い方でして、詩人であり、有名な、優れた官僚であり、なおかつ、画家でもありました。
蘇軾の詩を一つ二つ、そこに書いておきました。大変有名な詩ですが、「廬山の煙雨浙江の潮」というやつですね。「未だ到らざれば千般の恨み消えず、到り得て帰り来たれば別事なし、廬山は煙雨浙江は潮」という。これも蘇軾の真作かどうかという疑問があるそうですけれども、蘇軾の詩として非常によく知られている、「帰り来たれば別事なし」、禅でよく使う禅語の出典ということになるでしょうね。
この、蘇軾は、日本に来ますと、たとえば、道元禅師の、正法眼蔵で、「渓声山色の巻」というのがありますが、道元禅師は鎌倉時代の十三世紀初頭の人なのですけれども、そこに、有名な蘇軾の詩を引いております。「渓声は便ち是れ広長舌、山色清浄身に非ざること無し。夜来八万四千偈、他日如何が人に挙似せん。」これは蘇軾の詩なのですね、これが「渓声山色」という大変面白いテーマになってきます。つまり、せせらぎの声ですよね、そして、山の色、これはすべて仏の法身のあらわれでないものはない、という発想になっていくのですね、文字通り詩に書いてある「渓声」「谷川のせせらぎの声」というのが「仏の広長舌」である、「山の姿かたち」というのは「清浄身そのものである」、そうやって、廬山で一夜を過ごすわけですね。一晩中その、せせらぎの声が聞こえておりますから、これはまさに、「仏が八万四千の偈」を唱えていらっしゃる、この感動をいったいどうやって、誰に伝えたらよいのだろうか。こんな詩なのでしょう。仏教的な山水の解釈として非常に美しい風景を描いておりますね。
この蘇軾を中心にして完成してくる北宋の芸術理論というのは結局禅宗の考え方とつながっておりますし、そして、今いったように「逸」という、ことば「逸格」ということばは、蘇軾が大変高く評価する価値基準になってきます。そして、人間。先ほど絵を描くのは、人間が一番難しい、という風に申しましたけれども、これを思い出していただくと、やがて北宋以降、北宋から南宋にかけての絵画というのは、道釈人物画というものが大変人気を得てくる。まさに禅宗と密接に関わっていく。それが技法としては溌墨である。という、私の仮説ですけども。そういう所に集約されていく。これが、中国の芸術の一つの到達点という風に思っているんです。 ◆参考図版 解説 それについて、実際どういうことなのか見ていただきましょう。一番は范寛、二番が郭煕といいます。これは北宋の水墨の頂点です。北宋というより中国絵画の白眉といってもいいでしょう、中国山水の頂点です、これは。台湾の故宮博物院に収蔵されています。非常に謹厳なきちっとした、しっかりとした筆使いで縦2メートル、横1メートルぐらいの大きな絵です。郭煕も縦1.5メートル、横1メートルぐらいの大きな絵です。これが北宋の絵画の到達点といえるでしょう。
これは、南宋になります。玉澗といいます。「山市晴嵐図」というのですけれども、何が書いてあるのかと思うかもしれませんがじっくり見ていただくとこれは下に橋が架かっています。両側は岸なのです。真ん中にまるいのがちょん、ちょんとこれは蛙ではなくて人間が山道を歩いている。その後ろの山が霞んでおりますね。これが玉澗風の溌墨山水という風に考えられている書き方なのです。さっきお話した唐代の溌墨がお酒を飲んでハイになってボディ・ペインティングやる、前衛芸術のような概念だという風に考えると玉澗の場合は随分洗練された絵画の技術になっています。実はこれが雪舟の破墨にもつながってくるのです。

私が道釈人物画という風に申し上げていたのは、実は4番。 これは梁楷という有名な南宋の画家なのですけれども、これがその道釈人物画にして、尚且つ溌墨の人物画の一つの典型だと考えてください。そこにも溌墨仙人と書いてありますね。この描き方がやはり、蘇軾あたりが一番評価した人物の書き方、しかも人物が一番難しいというのを申しましたように南宋のあたりでその様な結論に達しまして、人物が一番難しくて山水はその次、という様な認識が定着する。その下も石恪という人なのですけれども、これは二祖調心図ですから慧可を描いたと伝えられていますが、定かではない。この石恪は五代の人です。唐が滅んだ後の五代十国の時代です。これも真筆ではなく模写らしいのですが、やはり人物画のとらえかたが非常に特徴的でこれもやはり逸格の絵画ということになるでしょうね。
それから上のほうにいきますと6,7,8番。6番は実は雪舟の若い頃の絵だろうといわれています。7番は周文の絵で「水色巒光図」といいます。周文は雪舟の偉い先輩になる、というか直接の先生だと考えてもいい。若いころの雪舟は周文について絵の修行をしていた。そこで一番似通っているような二枚を並べてみたのですが、確かに雰囲気が似通っています。ですが周文は雪舟よりもはるかに繊細な感じがします。非常にデリケートな山水画を描ける。周文は室町幕府の絵師になった人です。繊細な山水画なのですね、そういうものが室町、京都の都では受け入れられた。それに対して雪舟は三十代で都を離れることになります。この理由も面白いところですね。
中国の絵画というのは概ねそういう流れをたどります。概ねというのは、その最終的な到達点は逸格を最高にする。しかも道釈の人物画が価値が高い。しかも技術的には溌墨がよろしいというこういう非常に大胆な筆使いの絵画です。これが南宋あたりに到達した 中国の絵画理論の結論だと思いますね。これが、そのまま日本の鎌倉時代につながっていきます。これは中国のお坊さんが鎌倉時代に日本にやって来ますから、臨済系の鎌倉の五山というのは中国のお坊さんがやって来るのですが、そのときに、たくさんこの様な文化財も来ているし絵描きも来ていますからね。鎌倉の終わりぐらいから室町にかけてこういう禅林で水墨画が受け入れられていく。そういう文脈の中で雪舟という人をおいてみましょうというのが今日のテーマです。でも皆さんと一緒に考えてみたいのは次のところなのです。 ◆雪舟の晩年の絵
さて、これが雪舟の二枚の絵です。ご存知のかたも多いと思うし東京にいる皆さんは東京国立博物館の「山水図」と いうのはご覧になった方もいらっしゃるのではないでしょうか。右がこれは「慧可断臂図」ですね。達磨さんが向こうを向いている、慧可が参禅して左の手首を切って信心の固さを誓っているという図です。今日の問題は端的に雪舟をどのように考えるかというところで、この二枚を持ってきたのですけれども、左は76歳の絵です。右の慧可のほうが77歳のときの絵です。さて破墨山水からみてまいります。そして、これを皆さんにも描いていただきましょうか。もちろん頭の中で想像で筆を持っていただくわけです。
まず、これはどのような絵かといいますとそこに漢文が並んで漢字で活字の文章がありますが、これはいわば破墨山水の由来書なのですね。これは雪舟が自ら書いた文章ですが、言わんとするところは鎌倉から来た宗渕というお弟子さんが、雪舟の下で修行を終えて帰ろうとします。「相陽の宗淵蔵主、余に従って画を学び、年あり、筆、既に典刑有り、」というのはこのことなのです。そこで家宝にしますから雪舟先生の一幅の絵を所望したいと申し入れます。雪舟は私はもう年老いて腕も気力もないので少し辛いのだけれども、宗渕のたっての願いとあって一筆ふるったというのでしょう、そこで絵を描いたという場面なのです。その中で雪舟は私は中国の明に渡ったけれども決して驚くような先生は見当たらなかったと。わずかに張有声、並びに李在という二人の画家が大変都で名を馳せていたと。その人たちに習って破墨の法と彩色の法というのを習ってきたと書いてある。だけれども、私(雪舟)の見るところ結局、如拙や周文という二人の先生がやはり優れている、肩を並べるぐらいの存在である、中国の絵画と肩を並べるぐらいの存在だと書いているのです。その様なわけで雪舟が極めたところの破墨という風にいっているのですけれども、昨今はこれを溌墨という風に認識するという研究者が多いですね
。 さてその破墨を皆さんも書いてみましょう。皆さんならばこれをどのように描くでしょうか。少し心を落ち着けてですね。皆さんの前に白い紙が置かれております。想像してくださいね。右手には硯と墨が置かれています。筆が一本、そして水があります。道具はこれだけです。そして左にはお弟子の宗渕という方が座っているのでしょうね。先生の指先を、息をこらして見つめているというわけです。皆さんも筆を持ってみてください。一番最初に水の中に筆を下ろすでしょう。ゆっくりと筆を解きほぐして、さてどこからこの絵を書き始めるでしょうか。
ちょっと想像してみてください。一番最初に紙の上に置かれるのは何でしょうか。水ですね。最初に墨をつけない水をサーとこう置いていますね。皆さんのプリントもちょっと申し訳ないのですが左側の少しぼやけている空間、おおきな手前のね。おそらくここら辺を、水をサーと置いております。それからその墨の色の濃い、手前の山の頂があたり、ここら辺にも水をサッとおいております。それから薄墨を使います。薄墨を筆にとりまして、山の頂から左へサーとおろす。そうすると水のあるところには墨がファッと広がりますね。乾いている部分はそのまま筆の線がサーと出ます。この調子で左下に下ろし右下に下ろし、もう一回屈折して左下に下りていますね。その次に薄墨でもう一つその手前の岩の固まり
あたりまで描いていますね。その一番手前の岩の固まり、そしてもう一つ手前の砂、砂州ですね。岸辺のこの砂を二段ばかり描いていますでしょ。この辺りまで薄墨で一挙に描きます。そしてその次に家を描きたいのだけれどもちょっと形が安定しないのでもう一度もっと薄い墨なのでしょうね。屋根の左側に大きなかたまりの墨をはいていますね。それから家の下の辺りですね。これは水を刷いていますね。水を刷いているから墨が結構薄くなっているという感じですね。
これで大体大きな手前の山の形ができます。そこで今度は一番濃い墨を筆にふくませて、そして今度は上から勢いよくと墨をばらまく様においていますね。左の一番濃いところは、水を最初においていますからパッと墨が広がりますね。それから真ん中の山の色の濃い部分にも、これは樹木の幹なのですけれども、これを入れていく。その流れで濃い枝を点々と入れていますね。それからその濃い墨のまま屋根を二軒描いています。その手前は芝垣か何かなんでしょうね。それから下って今度は船、右下の船に人という。この様に描いたのでしょうね。これで大体全景の景色というのはできました。
最後に後ろの山ですね。遠い山なのですけれども。これはゆっくりと時間をかけて、このたとえば屋根とか船とかこの対比でもって後ろの山の高さというのは決まってきますから、この調子をじっくりと考えながらどの辺りに後ろの山を置こうかというような感じでしょうね。これも水を最初に山が消えている辺りにサッとはいておきます。そして非常に薄い墨でもって後ろの高い山をいっきに描いていく。そうすると水にファーと滲んでこのようなぼかしができるのですね。もっと一段と薄い墨でもう一つ奥の山をサッと入れる。これで国宝が描けたでしょうか(笑)大体20分ぐらいですね。
私の見るところ20分。つまりその、水の乾く間ですよ。水の乾く間に描いてしまうと。これがその破墨とか溌墨の呼吸なのですね。20分なら毎日描けそうだと思うかもしれませんがそうではないのですね。雪舟の中でのこの様な溌墨系のこういう山水画、こういう一気呵成ですねもじどおり、この様に描く絵というのは現在、真筆で6,7枚知られているのですけれども。実は6,7枚しかないのです。その中でも私が勝手に思うのですが、いいと思うのは半分の3点ぐらいしかない。なぜかというとそれぐらい難しいのです、溌墨山水というのは。やはりこれはこちら側の描こうという気持ちの高まりとそして墨と腕の具合とこれがピタリと重ならないとこの様な見事な絵にならないですね。これは何といいましょうか、破墨山水というのは真に奇跡のような調和の中で生まれた絵画ですね。私はよく美しすぎる、というのですけれども。本当に奇跡のような調和でもって出来上がった絵だという風に思いますね。それぐらい実際毎日のように雪舟さんは破墨を描いたかもしれない。しかし出来上がった物はやはり納得しなかったんでしょうね。おそらくほとんど捨ててしまったのでしょうね。本当にいいものだけを残すと6,7枚になったんだと思いますね。
◆有時(あるとき) 話が飛ぶかもしれませんが、禅語に「有時」という、「正法眼蔵」ですね、道元さんに「有時の巻」というのがございまして「有時は意・句ともに至る」という(プリント)4枚目を見ていただきましょう。山水画に有時とは何だ、ということになるのですけれども、この有時というのは「あるとき」と読みます。『ある時は意到りて句到らず、ある時は句到りて意到らず。ある時は意句両つ倶に到る、ある時は意句倶に到らず』、何のことかといいますと。意というのは心の思いなのですね。句というのは言葉です。言葉の表現。有時というのは文字通り、ある時はこうで、別のある時はこうだという意味なのですけれども。ある時は心の思いと言葉の表現というものがピタリとするときがある。思いと表現が一つになる時がある。これが「ある時は意句倶に到る」という意味なのですけれども。
またある時は思いと言葉とが全部両方だめだというそういう時もある。これは「意句倶に到らず」ですね。また別のある時は思いのほうがすごく盛り上がっているのだけれども言葉の表現がピタリといかない。今日の私の話みたいなものですね。思いは溢れるほどあるのだけれども言葉の表現がついていかない。また別のある時は気持ちはあまり盛り上がっていないのだけれども言葉だけが妙に上手に滑っていくなという、その様なときもあるというわけです。これは仏教で四句の分別といってもいいのですけれども。禅語のちゃんと典故がございまして「葉(セツ)県の帰省禅師という、臨済の法孫、首山の嫡嗣」という方の言葉なのですけれども、これはまさに溌墨、雪舟の絵画の呼吸に私はピッタリだなと思っているのです。
溌墨は文字通り一気呵成に描かなくてはいけない、その気持ちが盛り上がったところで筆をとって墨をおくのだけれども、思いと絵画の表現というのがいつもピタリといくわけでもない。そして思いと絵画の表現とが完全に最高に緊張したレベルで形になったものだけを雪舟は絵画として認めた。そして、最も素晴らしい出来がこの破墨山水なのだろうと思います。絵画表現ですから、その思いはあるのだけれども表現がうまくいかなかった。或いは、見かけはきれいにできたけれども、自分の気持ちが入っていない作品というのはやはり認められませんよね。これが東洋画の難しいところなのです。
やはり、その自分の気持ちの盛り上がったところで、筆をおく。それが、絵として奇跡のように調和する。で、実はこれは人間の計らいでは出来ないです。その時節の因縁の賜物とでも言いましょうか、水と墨と筆と、こういう不確定な要素が奇跡のように働いてくれないと、完全な素晴らしい絵にはならないわけです。そういう意味で、この破墨の山水というのは、奇跡のように出来た、調和のとれた水墨画なのだ、と思っています。それが雪舟の到達点であったのだろうという風に思います。これが、宗淵というお弟子を前にして、見事に描ききったという、そこらへんが雪舟の非凡なとこであるし、この絵画というものが持っている不思議なところでもあるわけです。この「破墨山水」というのはほんとに、ついさっき雪舟が筆を擱いた。その息使いがそのまま残っていて、これはもう雪舟が筆をおいて、それ以上一点一画も描けないという段階、これで完成したと、雪舟は思ったわけですね。文字どおりその墨と水の造形がそのまま五百年余りも時を経て我々の目の前にあるわけですから、そういう意味では、哲学的にいうところの「永遠の今」とでもいいましょうか、絶対の現在をとどめている絵画だというふうに思います。いつもこれを見るたびに、筆と墨とが今でも激しく動いているという印象をもたれないでしょうか?私だけでしょうか?それくらい永遠の現在というものを描きとどめた絵画というふうに思いますね。これは雪舟76歳でした。
それから次の年にこの「慧可断臂図」というのが描かれます。これをどういう風に見るのか。さあ、この破墨山水に比べて、慧可断臂図はどうでしょうか?私はどうもこの慧可断臂図は頂けないですね。雪舟は道釈人物画というのはたくさん描いてはいるのですけれども、あんまり得意ではなかったように思います。結論から言うと、人物を描ききれていないのではないか。達磨と慧可の2人を。なにか使用目的が別にあったのかもしれませんけどね。これも大変大きな絵です。縦1.5メートル以上ある、大きな絵なのですが、この破墨山水の次の年に描いたというのが、私には理解できない。といいますか、解釈できないのです。どうしてこういう絵になるのかな?と。そこで、先ほどの中国の絵画の理論というものが結局、道釈人物画にたどり着く。それが溌墨を最高にして、そして逸品の絵画というものを一番高い価値として認める。それが中国絵画の南宋ころの到達点だという風に考え、その流れで雪舟を考えると、どういう結論になるだろうか?ということなのです。そういう意味では雪舟さんというのは、中国の絵画理論でいうところの道釈人物画・溌墨・逸品。そういうところには向かわなかった。このいかにも美しい破墨山水ですよね。こちらが雪舟の頂点ではないだろうか?そういう気がしています。この美しすぎる破墨の山水というのがこれは文字どおり雪舟の到達点であるし、まあ、もっと大きく言えば、日本的な美意識というものの到達点ではないでしょうか。日本に禅宗が入ってきましたが、道釈人物画というものには、日本の芸術は向かわなかったですね。これがまさに日本的な美意識ということになるのでしょうけど。やっぱり日本人は美しいものを最高の価値にする。山水画の場合の頂点がやっぱり雪舟さんの辺りにあるという風に思います。
夏珪とか、もう少し雪舟の後になると、今度は大徳寺系の蘇我派という流れが出てくるのですけども、これは大変、癖のある画風でして、大変個性的な絵画を描きますが、そういう意味でいけば、日本の芸術の中で個性というもの出てくるのが、東山文化の後ですね。室町のもう少し後の応仁の乱の後の一休さんとか大徳寺とか、その辺の時代を待たなければいけなかったのかなという気がします。雪舟はそういう意味では日本的な美意識の典型とみなすことが出来る。だけれどもそこにあるのは、中国的な逸格画とか、溌墨とかそういう道釈人物画という非常にアクの強いものではなく、まさに日本的な調和のとれた美意識というものであったと思います。
中国の絵画というのは結局そういう士大夫の文化と密接に関連している。したがって非常に高度な理論性とか思想性を持っておりまして、水墨画の場合も別ではないだろう。それは、たとえば禅宗という一つの流れと共にこういう水墨画の流れが形成されてきたとも言えるし、そこに関わってきた文人たちの脱俗の精神といいましょうか、隠逸への憧れ、そういうものと一つであると。そこで、宋代に来ると蘇東坡などが理論的な中心者になりまして、「逸格」という価値基準が出きてくる。山水から道釈人物画へという、テーマが移っていくというのも、やはり禅宗の影響が働いているし、中国の人間に対する関心というものが強くなってくる。禅というのは結局人間しかいないということになろうかと思いますが、人間の面白さがやはり、禅の中心にあって、それがいわば中国の芸術のこの時点での到達点だと考えますと、それがそのまま日本の室町時代に伝わってくるのです。
日本的な美意識の特性、特徴であり限界ということであれば雪舟またはもう少し後の長谷川等伯の水墨画の山水が日本的な水墨画の到達点であろうと思います。それは中国的な基準で言えば「逸格」といいましょうか、風教というその様な非常にあくの強い溌墨の絵画には踏み込まない。日本ではやはり道釈の人物画はもう一つ流行らなかったのだろうという気がするのですが、初期のほうには例外があります。これは輸入してきたすぐのことですから可翁とか黙庵という人物画は輸入品が直接出回っていたという意味ではその様な例外はあるのですけれどもね。日本人の中でこなされていった美意識というのは、やはり山水の美しさというのに行き着く。
繰り返しになりますけれどもそういうものを乗り越えて日本人の作家の個性ということがテーマになってくるのは一休さんの時代あたりからではないだろかと思います。このときに文化というのは室町の将軍家からそれこそ堺の町衆に移ってくるわけです。それは村田珠光からやがて千利休へという、こういうよくご存知の文化の流れに移っていくわけですね。それは室町のいわば中世の確かな終わりというものを意味するという風に思います。
水墨画というのはなかなか馴染みにくいジャンルだと思います。私も長いこと雪舟さんの絵というのに馴染めなかった。あれほど有名な「四季山水」というのを眺めていても、線の太さというものがどうもピッタリこなかった。日本人はやはり繊細な線が好きなんですよね。ちょっとあれこれ絵をお見せすればよかったのですが、南宋のモヤッとした霧がかった、かすかにお寺の屋根が見えているような表現が大好きですね。あれが非常に繊細な美だという風に思ってきた。あれはやはり中国の南部の蘇州、杭州という、南の気候が日本人の感性にピッタリきているのですね。そういうところで理解されてきた牧谿などは日本で一番人気のある水墨画家です。そこでもう少し中国の絵画理論というものを使いながら眺めてみますと、雪舟は素晴らしい画家、絵描きなのですが、その雪舟の絵画の新しい見方というのも考えられるのではないか。雪舟の限界というのを私がいうのもおこがましいのですが、その様な中国芸術の流れの上で雪舟というものを位置付けることもできるに違いないという風に思っています。実際に作品を見ないと水墨画の面白さというのはなかなか分かりませんので、今日の私のお話では絵描きの名前と理屈ばかり言っていたので、退屈であったとは思いますけれども、また機会を改めて芸術分野のお話を続けてみたいと思います。 ありがとうございました。(拍手)
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