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東京禅センター第4回公開講座 NO.7

【 墨跡から見た禅僧の日中往来 】西尾 賢隆
平成17年9月17日


◆はじめに

 西尾です、宜しくお願いします。「墨跡から見た禅僧の日中往来」という題に沿ってお話したいと思います。そこにあります表は、玉村竹二先生の『五山文学』という至文堂の日本歴史新書のなかに入っている表です。玉村先生は日本禅宗史の草分けといっても良いだろうと思います。日本仏教史で著名な辻善之助先生のお弟子さんに当たる方です。

◆禅宗の伝来

 禅宗というのは、鎌倉の初期に日本に入ってきました。それ以前にも入ってきていたのですが定着しませんでした。禅宗が受け入れられるのにはまだ時期が早すぎたのです。明庵栄西は中国に出かけて、そして中国からインドに行きたいというような想いがあったのですが、残念ながら当時は北中国を女真(じゅるちん)民族の金朝が支配しており、そこを通ってというわけにはいきませんので、断念をしました。そこで、天台山で禅を学んで帰ってきました。もちろん栄西は天台の僧ですので日本に帰り、「禅宗だけを広めようとしているのではない」と言わざるを得なかったのです。

 というのは、京都というのはすぐ北に京都の守りである比叡山があります。その比叡山では天台の教えが行われている。そのような事から、円・密・禅・戒=天台、密教、禅それから律という総合的な中の一環として禅を行おうとしているのであって、独立して禅を広めようとしているのではない、ということを言っています。京都では禅を大々的に行うことが出来なくて、鎌倉の地に下ってきた。しかし、鎌倉の地で幕府の庇護を受けて、護持僧としての栄西がいるわけで、禅僧というよりも天台の僧というようなニュアンスが強かったのが栄西です。その栄西がこの表では三番目のところにみえている訳です。

 禅宗を日本に伝えた人は、昔は二十四流、四十六伝という様に言っていたのですが、玉村先生はそれだけではない五十九流だというわけで、最後の所を見ていただきますと、五十九番目の数字が並んでいます。たくさんの人々が中国から日本に禅を伝えた。と同時に、この表に載っている方だけが中国から日本に禅を伝えた人の全てではない。まだ他にもたくさんの人々が禅を日本に伝えています。日本に伝えてから、一つの派としては名のっていませんので、それでこの表に入っていないというだけのことです。

 例えば、近江に永源寺というお寺があります。この永源寺の開山は寂室元光という方です。寂室は中国に渡り禅を学び、そして日本に帰ってきたのですが、この五十九流には入っていません。建長寺の蘭渓道隆の弟子で約翁徳倹という方がおられます。その約翁の法を嗣いだという事になっていますのでこの五十九流の中には入っていません。しかしながら、中国の禅の影響はもの凄く大きくて、日本に与えた影響も大きいのですけれども、この中には入っていません。

 では、誰の影響を受けたかと申しますと、それは下の段の表の中に中峰明本という方がおられますが、この中峰の影響を強く受けています。その中峰の派のことを幻住派というふうにいっています。その幻住派の影響を受けて、いわゆる五山の寺には住持しない。この五山の寺に住持しない派のことを林下といっています。その手本を示した方が中峰明本であります。日本に非常に大きな影響を与えております。この幻住派という流れは、江戸期の中ごろまでずーっと続きます。林下なのですが、五山の中にも入っていくというような面も持っているのが、この幻住派です。しかしながらこの五十九の中には寂室は入っていません。

◆東福寺船

 禅宗が色々な人によって中国から伝えられます。伝えられるには、たくさんの人々が中国に渡りました。船に乗って行く訳ですから、板一枚の下が海ですので遭難するというような事も当時はありました。すでに発見されてからだいぶ時間が経っていますので皆さん知っている方もおられると思いますが、韓国の新安沖で漁師の方が漁をしていると魚の代わりに陶磁器の破片が海から上がってきたのです。普通の陶磁器では無かったため、大騒ぎになりました。その後十回に渡って総合的な調査が行われて、船が引き上げられました。その船に積まれていた陶磁器や銅銭など沢山の物が引き上げられました。その船は、韓国の新安沖に沈んでいたのですが、どこに行こうとしていたのだろうか、といいますと、向かった先は博多であることが調査の末、分かりました。

 寧波を出発して、そして、博多に向かっていたのですが、海に沈んでしまった。そこには、必ずや、たくさんの禅僧たちが乗っていたことは間違いない。その船を揚げた時の荷札から、それを、木簡といいますが、木簡から、東福寺に関係のある船だ、と。高校の日本史でいいますと、天龍寺船のようなものだ、と。時期的には、天龍寺船よりももっと早いのですが、東福寺船といってもよいような船だ、ということが分かった。その、船の荷札からすると、たくさんの禅僧たちも、その船に乗っていたことは間違いない。そういうわけで、この表には、出てきませんが、たくさんの禅僧たちが中国に渡る、そしてまた、中国からも、優れた禅僧たちがやって来る、ということになります。

 栄西は、日本に禅を伝えたとはいっても、いわゆる禅宗そのものを宣揚する、広めるというようなことは当時の情勢では出来なかった。栄西が著した本のなかに、『興禅護国論』というのがあります。そのなかに、栄西が予言をしているのですが、五十年経ったら、禅が広まるということをいった。その五十年後にあたるのが、鎌倉の建長寺の開山になった、蘭渓道隆ということになります。その蘭渓は、表の八番目ということになります。蘭渓は、中国からやってこられたのですが、日本から、どうぞ日本にやってきてください、という拝請状が行って日本に来られた方ではなくて、日本に行って、一つ禅を広めよう、というわけで、日本に参った。ですから、年が若くて、日本にやってこられた方です。

◆東福圓爾

 その、蘭渓のすこし先輩にあたる方が、五番目にあります、東福圓爾です。そして、この圓爾が蘭渓の面倒をみたりしているわけです。東福圓爾、従来は、圓爾弁円というふうに言われていたのですけれども、圓爾には、この弁円という諱はない、ということは度牒とか、戒牒を見ますと、そこから、圓爾が諱だ、ということが分かるわけです。そういう点で圓爾には、いわゆる、「号」というものがないのです。それはどうしてかといいますと、禅僧は、普通は、宋代の士大夫社会、知識人階級の影響を受けて、号というのを宋代に入ると持つようになります。出家して、戒を受けて沙弥になって、諱というものをもらいます。これは、僧としての名前ですね。これはどんな方ももっているのですけれども、号というのは皆持っているとは限らないのです。圓爾の場合には号がない。それで、こういう表を作ったりするときには、ちょっとアンバランスになりますので、あたかも号のように、東福というのをつけて、東福圓爾というふうにしているわけです。

 余談ですが、この号と諱、全部で四字になります。その諱のうちの一字目が系字、というふうに言いまして、師匠と関係する、そういう字をつける、あるいは、兄弟弟子と同じ字を使う、というのを系字といっています。ですから、この諱のうちの一字目を見ると、この人が誰の弟子であるかというようなことが分かったりする。そういうのが諱です。最初に僧としてつけてもらった名前です。

 そういう点からしますと、日本では、師匠の名前を一字、系字を貰ってつける場合があるのですが、中国では、そういうことは絶対にしません。それは、師匠というのは、非常に高い存在ですね、恐れ多い存在だ、尊ぶべき人だ、というわけで、師匠の名前をつける、あるいは、普通の方ですと、親の名前をつける、というようなことは絶対ありえない。弟子たちに同じ字を一字つける、というのが中国のやり方、中国では、「孝」ということばが非常に大事な概念ですので、そういう師匠と同じ名前をつけるということはありえないのですが、日本では、そういう師匠と同じ名前をつけたりします。こういうのをつけるときには、一字目につける。皆さんのなかに、例えば、お若い方ですと、自分のお子さんに名前をつける、あるいは、年配の方ですと、お孫さんに、あるいは、今ですと、曾孫の方に名前をつける場合には、一字目につける。こちらのほうにつけたらダメですよ(名前の二字目のこと)、これは間違ってつけているだけのことになります。

 ともかく、圓爾には、そういう、号がない。そういうことを、度牒や戒牒から証明することができる。度牒というのは、国家から僧としての身分を証明されたものです。今でいうと、そういうのはありませんので、パスポートがそれに当たるかもしれません。それから、戒牒というのは、二百五十戒を受けて比丘として、僧として、一人前になった、という時に戒牒を受ける。日本でいいますと、奈良の東大寺の戒壇院、下野の薬師寺の戒壇院、それから、大宰府の観世音寺の戒壇院、この天下の三戒壇で二百五十戒を受ける。その場合に戒牒というのが授けられるわけです。ともかく、この圓爾には号がなくて、そのかわりに東福という寺名をつけたわけです。

 そういう点からすると、表の横のところを見ていただくと、四番目が永平寺を開いた道元さん、その道元も号がない。そういうところから、寺の名前を号のように、永平道元というふうに言っています。圓爾が中国に出かけて、径山に登って、無準師範の法をうけて日本に帰ってきます。それで、裏のページを見てください。右の上にありますのが、五島美術館にあります無準の「山門疏」というふうに言われているものです。

ここに伺う前に、五島美術館に寄ってきたのですけれども、今回は残念ながらこの、「山門疏」というふうにいわれているものはかかってはいませんでした。「山門疏」というふうにいわれているのですけれども、これは、タイトルをつけ間違ったのですね。中身を読まずに、終わりから四行目のところに、「今月 日山門 疏」というようにあるものですから、「山門疏」というふうにタイトルをつけてしまったのですけれども、これは、読んでみますと、そうではありません。

 最初のほうは、序文にあたりますが、大きな字になった後半の部分がいわゆる、七言の絶句です。そういうところから、これは、「勧縁の偈」だというふうに言うことができます。それで、手書きで書いたのですが、勧進帳、いわゆる、寄付を募る趣意書、がこの「山門疏」というふうに言われているものです。山門疏というふうにいいますものは、入寺の疏のことをいいます。新しい新命和尚が拝請されて、どうぞうちのお寺の住持になってください、という文書を寺で作って、それを使いの人が持っていって、拝請してくるのが山門疏、その山門疏というふうに言われるのが、四六文で出来たものです。勧縁疏も四六文で作るのが本当なのですが、この四六文はなかなか作るのがしんどいわけです。そういうところから、7言絶句で、四六文の代わりに作ったのが、この墨蹟です。

 その墨蹟が径山から出されている。径山というのは、この中にも中国に出かけてお参りされた方があるかもわかりませんが、杭州の郊外の山のてっぺんにあるのですね。それで、今でも大きなバスでは、とてもそこまで登っていけないところなのです。杭州の町から二時間くらいかけたところです。昔ですと、とてもそんなところまでは杭州の町からでも一日で登るわけにはいきませんので、途中で泊まるところ、宿泊するところが必要だということで、宿泊の施設を作る、そこを接待所というのですけれども、そのプリントのところで、上のほうの、墨蹟でいいますと、六行目のところに、「接待一ヶ所を剏建し」というふうにありますように、接待所というふうにいっています。これは、無料の宿泊所というものです。修行者たちが径山に登るときに、そこに泊まって径山に登っていくわけです。その接待所には、宿泊施設があればそれでいいのですが、この墨蹟からしますと、仏殿、それから、法宝蔵殿、今で言う図書館ですが、そういうものを造りたい、というわけで、日本にまで奉加帳がまわってきた。それが無準師範の門下生たちのところにまわされたのだろうと思います。

 この奉加帳は、他の書簡ともいっしょに日本に来ていますので、当時、中国から帰ってきていた圓爾が、博多の承天寺にいました。その承天寺は現在でも大きな伽藍を擁していますが、残念なことに、都市計画で、寺を真っ二つにして、法堂があるところと、方丈があるところが分かれてしまっているのです。鎌倉期の面影は無くなってしまっているのですが、大きなお寺であることは間違いない。その承天寺、それから、栄西が開いた聖福寺、それから、大宰府から移ってきた崇福寺、この三つを博多の三刹というふうにいっています。非常に大きな寺が三ヶ所、この博多にあります。圓爾は、その一つ、承天寺にいました。そこへ、この奉加帳がきたことは間違いない。

 この五島美術館の説明では、東福寺にもとはあったものだ、と言っているのですが、本来ならば博多の承天寺になくてはならないのですね。圓爾が、東福寺に移る時に、いっしょに博多から持ってきた、ということになります。ともかく、趣意書が中国だけではなくて、日本にまでもたらされて、おそらく、かなりの寄付を中国に送ったのだろうと思います。その同じ時に、径山は焼けたりしていますので、その復興ということで日本から援助しています。それを、板渡しの墨蹟というふうに言っていて、それは、本来は承天寺にあるべきものなのですが、現在は東京国立博物館に入っています。何かあるときには展示されていますので、この中にも拝見された方がおられると思います。

 そういう、板渡しの墨蹟と同じ時に、これが来ています。その時、圓爾は禅僧ですので、お金を持っていません。それで、圓爾のいわゆるバックになる檀越が、博多綱首といって、今でいいますと、商事会社のいわゆる雇われ社長ではなくて、オーナーで、実質の支配者であり、船頭でもある、そういう人のことを綱首といっています。その綱首に謝国明という方がおります。名前から分かるとおり、中国からの人です。こういう人が、当時博多にはたくさん住んでいた。そういう綱首が径山に寄付をする、ということをしています。その手紙のことを板渡しの墨蹟と呼んでいます。

 「山門疏」は宛名を、圓爾というふうに呼びかけてはいませんので、他の無準師範の弟子たちにもこの趣意書が回されていたのだろうと思います。無準というのは、プリントの説明の一行目のところにあります。無準師範と書いて「ぶしゅんしぱん」というふうに呼んでいます。その趣意書のところで、これも、従来は無準が書いたのであろうというふうに言われているのですが、私は、これは、寺が公式に発行しているものですので、径山の書記の人が書いたのであろうと思っています。この書記の人というのは、いわゆる、寺院の修行面を司る。(寺院には、運営面を司る東班と、修行面を司る西班があって、その上に住持がいるわけですが、西班のところの三番目に属するのが書記です。終わりから三行目のところに「頭首」とあります。これが西班の頭首のことです。その、一番目と二番目が首座だろうと思います。)

 現在は首座というのは、法階のうちの最初のほうに属しますが、本来は修行をやりあげた人です。修行者たちのいわゆる指導者が首座といわれる方です。それで、三番目に名前が出てきます「徳清」、この方が書いたのではないかと思っています。ともかく、右の上の墨蹟は勧進帳です。その勧進帳は、日本からの修行者も利用する、もちろん、中国の国内を移動する修行者も利用する接待所を建てるための寄付帳、奉加帳がこれに当たります。

◆無学祖元を拝請する専使

 その下に、先程、栄西から五十年経ったら禅が広まるだろう、というふうにいって、その五十年目にあたるの蘭渓道隆だといったのですが、その蘭渓に関係するものです。
右ページの下の墨蹟は、最後のところに宛名が書いてあります。一番最後は、「英典座禅師」とあります。それは、その上に書きましたように、傑翁宗英という方の略です。傑翁というのはコック長であったというとことになります。それから、その終わりから二行目のところに、「詮蔵主禅師」というふうにありますのが、無及徳詮です。蔵主というのは、経蔵の係の長、大学でいいますと、図書館長というのに当たるだろうと思います。この墨蹟は、実は、北条時宗が中国から優れた禅僧を呼んできて欲しいというふうに言いました、その墨蹟です。これそのものは円覚寺にあるものなのですが、本来は建長寺にあったものだろうと思います。それが円覚寺のほうに移ったのだろうと思います。円覚寺に行っても、現在円覚寺には置いてありません。どこにあるかというと、鶴岡八幡宮の下のところに、鎌倉国宝館というのがあるのですが、その鎌倉国宝館に寄託されていまして、何かのときに展示されますので、機会があったら見ていただくとよいのですが、これそのものはそんなに大きなものではありません。時宗が優れた中国からの禅僧を呼んで欲しいという、その使者に指名したのが詮蔵主禅師、英典座禅師だったわけです。この二人は、蘭渓の弟子です。その方たちが使者にたって、無学祖元を拝請することになったわけです。

 無学は円覚寺の開山ということになっていますけれども、主には、建長寺にいて、円覚寺を兼務したわけです。教科書的には円覚寺の開山ということになっていますが、本来は建長寺におられたのです。この墨蹟は非常に古文書のほうでは有名なもので、古文書の概説などに載っていたりします。最初に本を開いて、写真が載っていたりするのを口絵というふうにいうのですけれども、そういうところに採択されたりします。実は、これは、全部時宗が書いたのではありません。

 色々な説が古文書のほうではあるようなのですが、終わりから三行目の一番下の、「和南」という字を時宗が書いたのだろう、というふうに言われています。そのところを見てもらいましたら分かりますように、時宗というのが三ヶ所出てくるのですが、三ヶ所とも字のポイントがちょっと小さいですね。大きな字が書いてあるなかに、ちょっと字が小さくなっている。自分の名前を書くときには、字のポイントを落とす、字を小さく書く、これが常識です。ですから、自分の字を当たり前に堂々と書く、これは、いわゆる文書の手法からすると、この人は何も分かっていないのだなあ、ということになります。そういうところからも、先程の度牒とか戒牒を見て、圓爾が諱である、ということが分かってくるわけです。ポイントを落として書いてあります。号ですと、ポイントを落とさなくても、同じ大きさの字で書いてよいのですが、諱は、そうはなっていないのです。

◆南浦紹明への餞の偈

 それから、左上のところのものは、消すのを忘れたのですが、『重要文化財』(毎日新聞社)の23巻目に入っているものをプリントしたものです。1977年の段階では、神奈川の鈴木富太郎という方が持っておられた。三転して、その後、大阪の湯木さん、吉兆のご主人ですね、この方が持っておられて、そこからまた手が離れて、裏千家の家元から欲しいと言われたのですかね、現在は裏千家の家元が持っています。ですから、これは、茶道資料館で展示されたりします。この左のページの上の墨蹟は、日本では名前が知られておらず、これ一点しかないのですが、そこに書いてありますように、無示可宣という方の墨蹟です。

 無示可宣という方は、表のほうのページでいいますと、下の段のところの真ん中くらいの一番下に南浦紹明とありますが、その横に手書きをして書いてあります。ですから、南浦紹明の兄弟弟子ということになります。そういう兄弟弟子のことを禅宗では兄弟(ヒンデイ)というふうに言っています。師匠を同じくする修行仲間であったわけです。それで、一行目のところに、「南屏の明知客」、知客ッさんというのは、これは接待係の長ですね。「南屏の明知客別れに訪い、復た日本の故国に還る」。南屏というのは、五山の一つ、浄慈寺のことです。日本に帰ってくる直前には明知客は浄慈寺にいた、そして、知客の係をやっていた、ということになります。

 別れのために、この私を訪ねてきて、そして、日本に帰ることになった。「謾に廿八字を以て行に餞す」。あまり上手ではないけれども、二十八文字のいわゆる、七言絶句を作ってはなむけの言葉とする。昔の人も、結構字を間違ったりするのですね。今でも間違えますけれども、ここのところを見て頂きますと、廿で二十ですね、そして、その下に十が入っているから、この十の字は本当はいらないわけですね。こういうふうに間違って入っています。だから、横に「ママ」としたわけです。「宋、?、金文の住山可宣」ここでも同じように可宣という字が小さく入っています。?というのは、寧波の中心になる町、県が?県というところです。寧波の町の中。日本で言うと、東京都世田谷区、ここでいうと、世田谷区にあたるようなところです、中国ですからもっと大きいですがね。そのところにあります、金文山というお寺に住持していた可宣という人がこの文書を書いた。一行目の明知客というのが南浦にあたるわけです。

 さっきから、「なんぽじょうみん」といっているが、おかしなことを言っているな、と。今まで聞いていたのでは、「なんぽじょうみょう」と聞いているのだけど、と思われるかもしれません。何故そんなことをいうかというと、江戸時代の妙心寺の住持でもあった無著道忠という方が、この人は、非常に優れた禅僧であると同時に、学問僧でもあり、たくさんの書物を著しておられて、今でも通用し、それを参考にしていますが、その方の書物に、『虚堂録犂耕』というのがあります。虚堂智愚の語録なのですけれども、その注釈書が犂耕というのですが、そこのところに、南浦紹明が二ヶ所出てくるのです。そこには、「ミン」というふうに振り仮名がしてあるのです。玉村先生の解説書などを読んでいますと、南浦紹明というのは、五山では「なんぽじょうみん」といい、大徳寺や妙心寺では、「なんぽじょうみょう」というふうに言う、と言っておられるのですけれども、どうも、妙心寺におられた無著道忠が、振り仮名をしておられるわけですから、江戸時代までは、おそらく、「なんぽじょうみん」というふうに五山派でも、林下でも言っていたのではないかと類推します。そういう伝統が、おそらく明治の初期の廃仏毀釈によってひっくり返されてしまって、途絶えたのではないか、というふうに思っています。そういったところから、「なんぽじょうみん」というふうに言っているわけで、寺で読む、遞代伝法仏祖の名号では、「なんぽじょうみょう」というふうに読んでいるのですが、ここでは、「なんぽじょうみん」というふうに言っています。

 その兄弟弟子の無示可宣のところに訪ねていって、はなむけの言葉が送られたのが、この墨蹟です。「玻?の盞子同盟を験し、誰か銭唐より敢えて程を進む」。禅のものだけではないのですけれども、詩というのは、平仄によっているわけです。平仄というのは、漢字にはそれぞれリズムがあるのですね。その平声というのが、平らな音と書きますように、スーッとした、現代の中国音にあてますと、第一声と第二声が大体それにあたります。第二声が必ずしも平声にはならないのですけれども。仄声というのは、偏った音といいますように、これは、現代の中国音でいうと、第三声、あるいは、第四声にあたります。そういうものを組み合わせて耳で聞いて、快いリズムになるように詩を作っている。それは、単に詩だけではなくて、さっき書きました四六文でも平仄によっているわけです。そういうところから、詩を作り、ちゃんと平仄にあわせる時に、文語でいかない場合には、俗語を使ったりする。当時のはなし言葉ですね。口語を使ったりする。

 その場合に、「向」というのは、文語文では、「おいて」という「於」という字と同じことになるのです。そういうところから、これはどうも「より」というふうに口語に読んだほうがよいと、後で他の人から指摘されて、そのほうがよいなあ、と思って変えています。「千里同風の一句子、明明に挙似し山城に到る 咸淳戊辰夏孟下澣 大円鏡に書す」。というふうに無示可宣が南浦紹明に送った詩、これは、序文と、それから、七言絶句から成り立っています。南浦は、もともとは蘭渓の弟子なのですが、中国に行って留学をして、その間に、その系図のところにありますように、虚堂の法を嗣いで日本に帰ってくるわけです。上のほうでいいますと、十八流に属しますし、下のほうは、真ん中のところにあたります。

 その南浦が日本に虚堂の法を嗣いで帰ってきた。日本に帰ってくると、中国の師匠の法を嗣いだ、ということを言えない人のほうが多いのですね。先程言いました、永源寺の開山の寂室は、建長寺の約翁の法を嗣いだ、というふうに言っています。本当に影響を受け、法を嗣いでいることは、資料の上から間違いないのですが、中峰の法を嗣いでいるとしても、日本に帰ってくると、そうは言えない。この南浦は、正直に虚堂の法を受けました、というふうに言いますと、今度は、鎌倉の地に足を踏み入れることが出来ないのですね。どこにいたかというと、九州の大宰府にいました。姪の浜の興徳寺に少しおられたのちに遷り、30年近く住することになります。大宰府の崇福寺、現在は、大宰府の山中に別院があるだけですけれども、寺そのものは博多のほうに移っていますが、中世は大宰府にありました。その、大宰府の崇福寺は、実は圓爾が開いた寺なのです。ですから、中世は聖一派の寺、五山派の寺であったわけです。

 もちろん、建長寺も五山派の寺ですね。その、崇福寺に住持して、三十年間程おり、その後、鎌倉の建長寺に出る、そして、京都にも住持する、というようなことになるのです。その間に、大徳寺の開山になる宗峰妙超が師事をし、そして、その宗峰のもとから妙心寺の開山の関山慧玄が出てくることになります。今度、十月十六日、太宰府に九州国立博物館がオープンします。これは何十年と九州に国立博物館を作ってほしいという運動をしていたのですが、ようやく出来ます。その、九州の太宰府の博物館に今度所蔵されたのが宗峰の墨蹟です。その墨蹟を、「凩の墨蹟」というふうに言っています。それは、中身から「凩の墨蹟」と言っているのですが。それを、今まで見たことがなかったのですけれども、去年の九月ですか、東京国立博物館に行きましたら、九州国立博物館が出来る、その前宣伝で、東京国立博物館でコーナーを設けて展示をしていたので、幸いに、この「凩の墨蹟」を見ることが出来ました。カチンとした字で書いてあります。

 今日見てきました根津美術館の宗峰のものは、草書の字ですが、この「凩の墨蹟」は中国人ばりの墨蹟です。この宗峰のもとから関山が出てくることになったわけです。関山そのものは、色んな資料を残していませんので何ともいえないのですが、その師匠の宗峰のものはかなり多くの点数のものが残っています。タイトルからだいぶ離れていってしまいましたが、第一回『墨蹟に見る禅僧の日中往来』というお話をこれで、終わることにします。


▼質疑応答

Q:南浦紹明を「ジョウミン」と呼ばれる林下と五山派の話をうかがいましたが、快川紹喜も「カイセンショウキ」と呼ばれるときがありますね。そのいわれなどありますか?

A:わかりません。耳で残っているのは「カイセンジョウキ」ですかね。大徳寺の開山を宗峰妙超といったのですが、「ソウホウミョウチョウ」とはいいませんね。ところが、宋代の禅僧ですけれども大慧宗杲。看話禅を開いた最初の方ですが、看話禅というのは公案を用いて禅にアプローチする。そういうのが看話禅ですけれども、その場合には誰も「ダイエシュウコウ」とはいいませんね。

 これは、玉村先生の受け売りですが、「諱で、出てきた場合にはソウ」といい、「号で出てきた場合にはシュウ」というふうに定義づけられています。が、そういうふうに定義をすると例外が出てくる。だいたいこれにあたります。快川紹喜もおそらくそういう意味があると思います。普通の読み方と違うなあとそういう言い方をしているんですが、その発音の仕方は唐音といいます。

 漢字は大きく分けて二通りの読み方があります。現代中国語をいれると四通りの読み方があります。仏教が日本に入ってきたときに一緒に入ってきたのが呉音です。それは、呉の地方の江南の音ということですね。江南地方というのは、梁の武帝のように仏教が非常に栄えたところです。そういうところから仏教が古代に入ってくるときに呉音が一緒に入ってきた。

 唐の時代の官僚制と一緒に入ってきた音が漢音です。漢音というのは漢の時代の音という意味ではなくて、長安を中心とした地域の都の音というわけです。それから、唐音というのは、唐の時代の音というわけではなく、宋、元、明、清という近世音です。その近世の時代に禅宗が非常に栄えていましたので、その禅宗と一緒に入ってきた音が唐音というものです。

 例えば、浄慈寺というふうにいいましたけれども、そのジンズというのもこれは唐音です。都会ではあまり無かったかもしれませんが、田舎で生まれた方ですと、昔、普請という言葉を耳にされたかたもおられるとおもいます。道の補修をする道普請、家を直す、家普請、というこの普請は禅宗と一緒に入ってきた。「普く請ずる」というふうに訓読できますから、今日入ったばかりの修行僧も一番上の住持の人もみんな一緒に仕事をする、作務をすることを普請といいます。そのシンというのも唐音です。

 高校や中学で学びます、中国の新しい時代、元、明、清というときの明、清、これは唐音です。知らず知らずの間に耳に入っているんですね。そういうのが、意識しないでごちゃごちゃになっている。例えば、皆さんに読んでいただくために読みやすい本を書いたりされる方は出版社でルビをふったりすると間違うんですね。ついつい間違った本が広がったりします。それが、間違ったほうがだんだん正当になってしまいます。例えば、坐禅の「坐」でも坐るという意味ですから、この字でないとダメなのです。「座」だと座席の座になってしまう。

 そういう点で、出版社や新聞社が、そう言っても、無理にでも直す、というふうにしないと、字が分からないようになってしまう。これは、唐音、呉音、漢音、というふうに意識して使わないと間違った読みが通用してしまうことになります。

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Q:先生は墨蹟から歴史を見るという研究をなされていますが、その過程で気づいた点があればお教え願います。

A:私が墨蹟を歴史の資料に用いようと思ったもとは、博物館とか美術館とかに行きますと、展示してあるところに説明文がしてあるのですが、それがどうもピンと来ないのですね。その中身のことと、説明してあることとが一致しないことが多い。そういうところから、何とかそのものを読んで利用できないものかと思ってはじめたわけです。

 歴史の資料として墨蹟を使っていることは前からあるんですけれども、最近は意識して、できるだけものを見るように、本当は近づいてみるとよいのですが、さっきの墨蹟ですが、「山門疏」というふうに言われているものは迫力があります。大きくてこれぐらいはありますね。ですから、床の間にちょっと掛けるというわけにはいかないのですね。大きなお寺の床の間だったら、これは十分うつりますけれども、小さい家でそれをかけても墨蹟がそぐわなくなってしまいます。けれども、ともかく迫力があります。是非とも良い地におられるわけですから、出かけて見てきていただけたら、と思います。

 この地は静嘉堂が二子玉川園の近くにありますし、上野毛の五島美術館、それから、根津は表参道にあります。東京国立博物館は上野、まあそう遠くはありませんし、特別展示ではなくて、常設展のところに、いろいろなものが展示されています。特殊法人になってから、皆さんに奉仕しようというわけで、良いものがどんどん出ています。とりわけ、日本館の本館のところには良いものがよく出てますね。

 それから、当たりがよいと、東洋館でも良いものが出ているときもあります。新しい墨蹟を見ていますと、下手な字だな、と思ったりします。そういう古いものを見ると心が洗われる、そういう面も持っていますし、何と読むのかな、という気持ちを持ってもらいますと、ここで話をした意義もあるかなあ、というふうに思います

 

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