12367891014151820

東京禅センター第4回公開講座 NO.8

【 片手の音-禅の教えと悟り 】安永 祖堂
平成17年9月17日


◆はじめに

 皆様こんにちは。花園大学の安永です。前回から続きまして禅の世界、特に臨済宗の禅問答の中で使われる禅の問題、公案にちなみまして少し違った方向から皆様と一緒に考えてみたいと思っております。今日は、最初に以前私が翻訳したものを使いまして、いわゆる日本人論の中から禅というものをとらえ直して見ようと思っているわけです。

 最初にレジュメのタイトルが『禅と甘える』となっておりますけれども、父親的な愛と母親的な愛、そういうとらえ方が宗教学の分野には御座います。そこで、父性的、母性的という視点から禅というものをとらえてみたいと思います。さらに禅の良く知られております公案で「?啄同時」というものが御座います。そのお話を少しさせて頂ければと思っております。

 ということで、まず『禅と甘える』です。その『禅と甘える』はウィリアム・ジョンストンというイエズス会の神父さんが書かれたものを翻訳したものです。京都の花園大学の禅文化研究所から発行されている『禅文化』という季刊誌がありますが、そこに一昨年掲載させて頂いたものなのですね。訳者前書きという形で、こういう事を述べております。私達日本人というのは、日本人論というのを喜ぶ、その歴史を振り返りますとまずでてきますのが『菊と刀』ですね。これはご存知の方も居られると思いますが、アメリカのルース・ベネディクトという女性の学者さんが第二次世界大戦中、戦争が始まる前からこの戦争が終わって日本を占領した場合にどの様な占領政策をとったら良いのかという事で日本人を色々な角度から研究した成果の一つなのだそうです。

 ですから「菊と刀」は1946年に出版されています。日本語に翻訳されたのは1948年だそうですが、その緻密な分析というのが日本人にとってある種非常に驚きだったそうです。罪の文化と恥の文化。欧米のキリスト教圏ですと人間の行動の規範となるのが罪の観念、いわゆる内面的な罪、人と神との関係において行うべきか、行はざるべきか。その一方で日本人の場合には恥をもって基準にする。つまり、これを行えば恥ずかしい。ですから恥じる文化として日本をとらえれば、いってみれば内面的な神というものを持たないが故に、これを人に見られたらどうしよう、その様なことでもって行動を決定するということをよくいわれます。罪と恥という文化の違いを最初に提起したのがルース・ベネディクトの『菊と刀』ですね。

 続きまして中根千恵先生の『タテ社会の人間関係』これもロングセラーになっております。皆さんもご存知だと思いますが『日本人とユダヤ人』。イザヤ・ベンダサン、実質的な著者というのが山本七平さんという方なのだそうですが、『日本人とユダヤ人』の中からは「日本教」という言葉が大変有名になりました。日本人は無宗教などではないのだと、日本人は日本教という宗教の信者なのだと、日本人の信仰心というものを説明したのです。だから日本教というのはどの様なものかといいますと、人と違ったことはしない。グループ、和が大切であるというのが教義、そういうことなのだそうですね。ですからその様な観点でもって日本をとらえる、それで有名になったのが『日本人とユダヤ人』。
 その様にいくつかすぐに思い浮かびます。

 その中でもやはり長く読まれているのが土居健郎先生の『甘えの構造』という本で1971年に出版されました。東京大学の精神科医の土居健郎先生がアメリカに留学された体験をもとに「甘え」というものを一つの基本的な概念として日本人の心理を分析したそうです。すでに三十年以上経っていますので、その当時に主張した「甘え」というものの見方が現在の日本の状況を見れば当てはまらないかもしれません。たとえば「義理人情」がその例ですね。その様な感覚は希薄になって来た。それはそうかもしれませんが、ただ良く観察してみますと三十年前と比べて現在の日本の状況を見ますと子供が親から独立する、自立するというのはですね、精神的にも経済的にも生活上の自立というものがずいぶん遅くなっている。いってみればそれは子供が親に対して甘えているという事ですね。それは現在ですと「ひきこもり」に見られますね。

 斉藤環先生の本で数十万人いるといわれる「ひきこもり」ですね。或いは「パラサイトシングル」という未婚者。結婚をせずに親御さんの家で生活をするという、自分の収入というのは自分の趣味のみに使うというライフスタイルですね。その様なものを見れば昔と全然変わっていないのではないかと、土居先生が唱えた「甘え」というのは姿、形を変えて残っているのではないかという事なのですね。これは先月発売されました「読売ウィークリー」という雑誌なのですが、ここにはいわゆる「ニート」といわれる、皆さんご存知でしょうか?「NEET」と書いて「ニート」と読むのだそうですね。つまり「NO、NOT」ですね、「Education」教育も、「Employment」雇用にも、「Training」訓練も受けていない、その人たちの事を「ニート」と言うのだそうですけれども、この「ニート」といわれる人達は現在、およそ85万人が内閣府の調べですと存在する。いわゆるフリーターという人達が約217万人。つまり大体300万人ほどの、所得税をほとんど払っていない人達がいるそうです。

 私は学校に行くときに電車と車で、とくに荷物があるときは車で行くのですが、丁度二時間目の講義に入る前に京都市内のパチンコ屋さんの前を通ります。開店前に行列をつくって待っているのはほとんど二十歳前後の若い人達ですね。思わず「働けよ。」と言いたくなるのですが・・・。現在の状況というものは、さっき言いました「パラサイト」というのは寄生虫のことですが、「パラサイトシングル」がいると。それが先月号の「読売ウィークリー」で山田先生は今に年金パラサイトが現れるというのですね。ご両親の年金を頼りに自分が生活をするという、そういう状況にまで及んでいるのだそうです。

 現在の日本の状況を見ても土居先生が指摘された様な甘えというのは、やはり形を変えて強くあるのではないかと思います。世界中の歴史的に見ても地理的に見てもこの様な人たちを300万人も抱えている社会というのは例がないそうですよ。ところで土居先生ご自身はカトリックの信者さんなのですが、『信仰と甘え』という本も出されています。その中で「甘え」という感情と、キリスト教の信仰との関連もお話されています。レジュメにありますように、「「甘えと信仰の区別と統合の問題」は、「信仰と理性の関係」に勝るとも劣らず重要であろうと書いたが、誰もその後この問題を取り上げていないように思う。ただ一人ウィリアム・ジョンストンといって禅を実践しているイエズス会神父が私の「甘え」についての英文の論文を読んで興味を持ち『禅と甘え』と題したエッセーを書いている」、とおっしゃっています。

 つまり『禅と甘え』と題したエッセーというのが、「ゼン アンド アマエル」というものですね。それを私がたまたま読みまして面白いと思いまして、拙い英語力も省みずに翻訳したものなのです。ウィリアム・ジョンストン神父という方は現在もお元気でご活躍中です。もともとアイルランドご出身のイエズス会の司祭。上智大学で長く教鞭をとっておられまして、遠藤周作さんの代表作の『沈黙』を英語に訳したり、『修道生活百科辞典』という大きな辞書も編集しています。私が翻訳したいと上智大学のジョンストン神父に承諾を得まして、この様に日本語に訳したのです。なぜ面白いのかといいますと、日本人独特の「甘え」という感情が、禅とどのように関わるのか?西洋人のイエズス会の神父さんから考えているのです。その視点というのが大変興味深い。それで翻訳させていただいたわけです。

◆ 禅と「甘える」

 では少しずつ本文の内容に入っていきますと、「最近、東洋と西洋について東洋の心を形成するものは何か、あるいは日本の心の最たるものとは何なのか等々について、随分と議論されるようになってきた」とはじまるのですね。この「甘える」という言葉なのですが、日本人にはわかるのかも知れないけれども欧米の文化圏で育ったものにはなかなか理解に苦しむというわけなのですね。つまり、当惑させられる言葉ということになります。また「甘え」というのは何なのかという事になります。つまり「甘え」とは、「他者の行為に依存し期待することを意味する「甘える」という自動詞の名詞形である。この言葉は語源的には味覚、舌、味ですね。その形容詞の甘い「Sweet」と結びつくということなのです。この「甘える」という言葉には、甘さ、優しさという明確な語感があり一般的には子供から親、特にこの場合は母親、お母さんに対する振る舞いや態度を指す。その様なケースが多いが、この言葉は夫や妻、主人と使用人などの大人同士の関係の機微を表現するときに用いる。そして日本語に相当する英語の言葉は無いと考えられる。確かに和英辞典を開いても、「甘える」という英語は御座いません。

 ですから『ザ・アナトミー・オブ・ディペンデンス』というのが、英語に訳された『甘えの構造』のタイトルなのです。ディペンデンスというのは、頼ること、依頼すること、依存することという意味ですから。甘えるという日本語そのものでは英語に直せないということなのです。直せないということは、概念そのものが、英語を母国語とする人には無いということです。この言葉は本来は母親と子供との関係について言うものなのですが、土居先生によれば日本では、幼児期を過ぎてもなお続き、その行動パターンは慣習化されて、社会を構成するものまでになっている。ですから甘えという言葉に当てはまる事柄は、私たち日本人の社会生活の隅々に見る事が出来るということです。

 「義理人情」、これも言ってみれば人に甘えているということになります。一つの甘えでもある。この色々な甘えというものが社会的な風土にまで至っているのではないかということです。つまり集団に頼るということですね。そのあたりのことを「寄らば大樹の蔭」、「出る杭は打たれる」。この様に日本の社会では人は個人としての自立を目指すのではなく、集団の中で自らを目立たせないように努める事となると指摘をしています。

◆ 悟りと「甘える」

 「しかし私がもっとも興味を惹かれるのは土居博士がいくつかの著作の中で触れている、日本の宗教のあり方に及ぼしている「甘え」の影響である。」つまり日本の宗教、先程は社会的関係というところで「甘え」というものを見ましたが、日本の宗教の世界ではどの様に理解できるか?土居博士はこの様な指摘をしました。「禅の悟り(全体の中での自己の消滅)を求めることも「甘え」と無関係ではないと考えている。」つまり土居博士は「甘え」という一つのキーワードを軸に様々な日本の社会あるいは宗教を見ていると、禅で言うところの「悟り」は、いわば「甘え」という言葉である程度説明がつくのではないかと述べています。

 ここでは私が翻訳していますからジョンストン神父が書かれたそのままに訳していますが、「禅の悟り」の説明として、全体の中での自己の消滅というように解釈しています。「禅の悟り」となるとなかなか難しい事柄ですね。悟りという漢字で代表的なのはこの二つ「悟」と「覚」と思うのですが、「悟」を見ますと「りっしんべん」ですから心を表しますね。右側は「吾」ですね。つまりこちらの漢字の構造から類推するに私の心というつくりでもって悟りという漢字になるということです。「覚」は自覚の覚ですね。この場合ですと上の部分と下の部分に分けて、上のほうは「明らかに」という意味を持つ部首です。下は「見る」ですから、「明らかに見る」それが覚りである。大和言葉で「さとり」となりますけれども、「人を諭す」といいますね、つまり自覚させるということですね。動詞で言うと「さとす」。「はやい」という意味で、「敏い」(さとい)とも言いますね。つまり理解が速いという言葉と関連がある。ですからもともとの悟りというのは漢字と大和言葉から類推するにその様な意味がある。

 禅を世界に紹介された鈴木大拙博士がおられますが、欧米の人達に「悟り」というものをどの様に説明すれば分かってもらえるかということで、日本各地に伝わっている民話を喩えに使っています。妖怪の話なのです。漫画家の水木しげる先生の妖怪辞典にも登場してきますが、日本には昔、妖怪「サトリ」というのが居たそうです。どの様な妖怪かといいますと、昔々あるところに働き者の木こりがいて、朝から晩まで一生懸命働いて、木を薪にして生活をしていたそうです。ある日いつもと同じように山の中に入っていき、木を切ろうとしている姿を森の奥からジッと見ている妖怪がいた。それが「妖怪サトリ」なのです。この妖怪が非常にいたずら好きで、人間の心が読める、そして「遊ぼう、遊ぼう」と言って木こりの仕事の邪魔をするのです。それで、木こりは怒り妖怪を捕らえようとするのです。ところが妖怪は人間の心が読めるので、どちらから来るかが予測がつき、逃げられるわけです。どんなに木こりが一生懸命追いかけても妖怪は捕まえられないのです。そのうちに木こりは諦めて木を切り倒そうとすると突然、力を込めて振り下ろした斧が、斧の先の部分だけ抜け飛んでいき、妖怪の額に当たり妖怪は死んでしまった、という話なのです。

 私は国際日本文化研究センターのホームページで調べたのですが、日本各地にこれとそっくりの民間伝承がありますね。たとえば福島のほうでは妖怪「ココロ」というのがいるそうです。いわばその様な話が残っていて、それを鈴木大拙博士が使ったのだと思うのですが、この話は実に含蓄が深いのです。例えば、私達が一生懸命「サトリ」を捕まえようとしても、捕まえようとする気持ちがある限り捕まえることは出来ないのです。ところが、ある日偶然に意識しない時に「サトリ」が自分の足元にころがっているのです。ところがその時には私達が手に捕れるのは「サトリ」の死体だということです。つまり死んだ「サトリ」ならば手にすることが出来る。生きている「サトリ」は私達は手にすることは出来ないのです。つまり悟りとは坐禅をくんで禅定に入り、そこから般若の智慧が・・・とその様に一生懸命に心理学的に生理学的に「サトリ」を分析、研究するということは、私達は「サトリ」の死体を解剖している様なものなのです。決して生きた「サトリ」ではないのです。そこが禅の悟りの一つの特徴かと思います。

 鈴木大拙博士は含蓄の深い話をもって「悟り」というものを御紹介されたと思います。ただジョンストン博士は禅の悟りというものは「全体の中での自己の消滅」と解釈しておられる。確かにこれはキリスト教の立場からみた禅の悟りという様な宗教的経験の分析だと思います。ここで気を付けなければいけないことは、体験と経験は違うということです。これも英語の辞書を引くと「Experience」としかでていませんが、体験と経験というものは違うのです。まず体があるのです、体が験すのです。それを経過したもの、得たものが経験です。だから体験があって経験があるのです。つまり、宗教体験は必ず宗教経験に先んじるのです。どの様なことかといいますと、体験というのはその時そのものです。例えば、ガッチーンと頭を打ったとします。「痛い」と感じる。これが体験です。だから「痛い」しかないのです。その後でその次に経験というふうになり、ここで以前ぶつけたから気を付けないといけないと思うのです。ですから先程「覚り」を、明らかにみるのが悟りだといいました。禅には見性成仏という言葉が御座います。そして禅の体験というものを見性体験とも言います。悟りというのは大変意味が広いので生活そのものが悟りととってもいいのですが、見性体験という、坐禅をくんで、或いは托鉢をして、仕事をしている時に「アッ」という体験がある。本来の自分に気が付く時点です。それは点です。点があって線があるのです。ですから見性というのは点なのです。その持続が悟りの線なのです。見性成仏というのは、一般的に自己の本性をみて仏になるのだと解釈します。ですから自己の本性を徹底的に見抜き仏になるのだと。でもそれは、おかしいのです。なぜかというと、見る自分と見られる自分が別れている。だから本来はこの見性成仏というのは、「現れた本性は成った仏だ」とその様に読まなくてはいけないのです。ですから出現した、現れた性は、つまり本性は、それがそのまま成就している仏であると理解するべき言葉なのです。

◆ 大洋的感情

 『禅と甘える』に戻りますが博士は禅の悟り、全体の中での自己の消滅とその様にとらえているのは、一己の我という大きな宇宙意識のような、仏と呼ばれるような大いなる命と溶け合うこと、そう理解されているのです。博士が禅の悟りを求める事も甘えと無関係ではないというのは、その次の場所がポイントになってきます。「「甘える」という言葉で表現される依存願望は、「一度失われた母親と幼児の擬似的一体感の回復を求める」、またはフロイドの言葉を借りて、「大洋的感情の体験を求める」ことであると定義してもよいだろう」とそのようにいっています。「甘える」という言葉であらわせる様な何かに頼りたいという願い、望みですね。それは私達人間が、失われた母親とそして幼子の擬似的な一体感の回復を求めるわけです。つまり私達は母親のお腹の中から生まれて来るわけですが、もともと母親と一体であったものがこの世に誕生する時には別れてしまいます。それは非常に辛い事である。だから元の一体感というものを手に入れたいと、それを大洋的感情というフロイドの言葉を使っているのです。大洋的感情というのは大きな海に必ずどの水も帰っていくものだという事です。たとえ雨になっても雪になっても霰になろうが必ず水というものは元の大いなる海に戻るということです。そしてそれは別離の苦痛を克服し、同時に別離の現実を否定しようと試みる。言葉を換えれば、「甘える」人間は、自己と他者とが一体であることをあてにしているといえるのでしょう。

「しかしながら日本社会の平均的人間にとっては、自己と他者との一体感とは普通、彼の属する集団の大多数が共有している単なる約束事か、せいぜい錯覚に過ぎない。もっとも何人かの人々には禅における場合のように深遠な無の境地に達し、この際個人の自我は宇宙自我の中に埋没し、主体と客体の同一性が直観的に認識されるのかもしれない」といっています。ですからその箇所にジョンストン神父がさらに解説を加えているのです。フロイドの「大洋的感情」とは、宇宙と分かちようがないほど一体化しなければ、「悟り」を求める者は(必ずしもすべての者がそうであるというのではなく、その様な場合もあるということで)、母親と子供の関係とさほど変わらないつながりを求めているのではないだろうかということなのです。
ですから、禅の世界に志をたてる者はマザーコンプレックスだとおっしゃっているのです。つまり、その関係において、母親と結びつくというのではなく宇宙もしくは宇宙意識というような無限の本質の中に自我が消滅するというようなつながりである。その次はいかにもキリスト教的な見方ですね。「付きしたがって離れることなく、その分身でもあるような母親の中に完全に吸収同一化されてしまう子供が、個としての自我を持たないように、禅の観想にふける者は、普遍である宇宙の中に自らの個我を失うのである。個我を失うのだから「無我」、「無心」、「無」であり、「空」なのである。」と述べておられます。

◆ 父性的と母性的

 「道元禅師が『悟り』を求める人間を駆り立てるものとして「不安」を唱えたことはよく知られている。もしもこの仮説が正しければ、この根源的な不安は何者かに対しての完全な依存の中に自身を没却してしまいたいと甘えたいということではないか。」という解説をここに加えています。そこで禅の立場から反論というのではないのですが、お話させて頂きます。まずこれは宗教学の代表的な分類、分け方の方法なのですが、世界にたくさんある宗教というものを二つに大きく分けることが出来るということなのです。父性的、お父さんの愛情的な宗教と母性的、お母さんの愛情的な宗教の二つに分けられるだろうと。お父さんとお母さんが子供を愛する、それは間違いないですね。でも、お父さんの愛し方とお母さんの愛し方では、同じ我が子を愛するにしても違うのです。

 父親というのはどの様に愛するのかといいますと条件が満たされれば愛するわけです。父親は自分の子供が自分に似ているから、自分の期待にこたえてくれるから、だから愛する。一方母親はといいますと条件は無いのです。たった一つ、その子が自分の子だから愛する。ですから母親というのは無条件的であり、父親というのは条件的である。子供のほうにも努力が必要になってきます。父の期待にこたえなければならない。それが必要になってくるわけです。父性的愛というのはあるべき姿(条件的)が求められるのですね。しかし母性的愛(無条件的)というのはあるがままでいい。父親というものは子供をあるべきものとして愛し導く。母親は子供をあるものとして愛し包むということです。

 このような父親と母親の愛の形というものはこの地球上に存在する様々な宗教にも適応できるということです。つまり、父親的な愛という形で一人の人間と絶対者(神)とのつながりを象徴している宗教がキリスト教、イスラム教、ユダヤ教だと思います。父親的なスタイルです。その一方で母性的なスタイルというのは仏教、道教、ヒンドゥー教であるでしょう。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教というのは人間と神とは契約的な関係にあるわけです。ですから父性的なもの、つまり「父なる神」です。仏教、道教、ヒンドゥー教は大地の母性というものを強調するわけです。

 これは宗教だけの話かと思うかも知れませんが決してそれだけではないのですよ。たとえばハリウッド映画を例に上げてみましょう。「スターウォーズ・エピソード3」が公開されました。スターウォーズ・シリーズが全部完成したのでしょうが、この宇宙冒険ファンタジー作品のテーマの一つは父と子の関係なのです。つまり父というのはアナキン・スカイウォーカーです。ダース・ベイダーですね。子供はルーク・スカイウォーカーです。この二人の親子の関わり方というのはこのシリーズを貫くキーポイントになっています。「ターミネーター2」というのがありましたね。アーノルド・シュワルツェネッガーの作品ですね。あの映画の中のサラ・コナーズとジョン・コナーズの母子にとって理想の父親像を演じていたのがT−800というサイボーグ、すなわちアーノルド・シュワルツネッガーの演じていた役です。母子を守る強い父、息子が一人前の男に成長するように導く父なのです。

 その様に考えますと私達はワクワク、ドキドキしながらハリウッド映画を見ていますが、そこには彼ら製作者の心の奥底にひそんでいる父親と子供の関係に対するこだわりというものが見えつ隠れつしているのです。インディー・ジョーンズ・シリーズもそうです。母と子ではなく、父と子が主役をつとめています。つまりいってみればスクリーンの中に父なる神と子としての人間との関係を示唆しているのが、それらのハリウッド映画作品なのです。「エデンの東」。そのものズバリですね。父親と子供。ジェームス・ディーンでしょうか。或いは懐かしい西部劇「シェーン」。これもそうです。流れ者のガンマンであるアラン・ラッドというのはあるべき父親の理想像なのです。父と子との関わりを映画の中でも追求しているのですね。では母性的な方はどうなのかという事です。日本では「男はつらいよ」のシリーズがあります。あの中でお母さんって誰と思うかもしれませんが、お母さん的な存在がじつは妹の「さくら」なのです。帰るところがある、帰ったら自分を受け入れてくれる、自分が何かをしたら助けてくれる。「さくら」という存在は母なるものを表しているのです。わがままな寅さんをやさしく迎えてくれるのは世界にただ一人、「さくら」だけです。ですから意識するにせよ、しないにせよ母と子のかかわりというものを潜在的にテーマにしているのです。かつて「男はつらいよ」は必ずお盆とお正月に公開されましたよね。無宗教を標榜することの多い日本人が唯一、一年に二回だけなんとなく宗教的なおごそかな雰囲気にひたる時ですね。いかにも象徴的ではありませんか。その様に文化の奥底にひそんでいて、どちらかがアピールするということです。ですから欧米の人達、キリスト教の文化圏の人達には作る側も見る側も父性的な愛というのが一つの焦点になる。日本ですと母性的な愛なのです。

 ジョンストン神父は「甘える」ということを土居先生の言葉から引用してきて「禅の悟り」は「甘える」ということとつながりがあるのではないかと言っています。しかし、禅は歴史的に見ると言うまでもなくインドの釋尊の悟りにその源があるわけですし、インドから中国へそして日本にやって来たわけですから、元々の禅は決して日本文化に育まれたわけではないのです。禅は仏教の中でもどちらかといいますとむしろ父性的な側面が強いのではないでしょうか。母性的なのは浄土真宗、親鸞聖人の教えでしょう。「甘える」という言葉を切り口に使っていますが、むしろ禅は、日本の文化の風土の母性的なものを喜ぶ中では例外的に父性的な側面の方が強いのです。
まず一例としては武士階級が喜んで受け入れた仏教でもありますよね。男性的なのです。二番目に考えられるのは師弟関係です。禅の世界では師匠は絶対でありまして父親的存在であり、修行者は子供の様な存在です。むしろ禅は日本の中で母性的なものを喜ぶ風土の中では例外的に父性的な宗教でもあるといえるのです。

◆ ?啄同時

 本題に戻りますが『碧巌録』という禅の公案集(問題集)が14世紀ごろに中国で完成しました。その第十六番目の問題の解説文に「大凡そ行脚する人は、須らく?啄同時の眼を具し、?啄同時の用有って、方めて衲僧と称すべし。母啄せんと欲すれば子?せざるを得ず、子?せんと欲すれば母啄せざるを得ざるが如しと。僧有り便ち出でて問う、母啄し子?す。和尚の分上に於て、箇の什麼辺の事を成し得るや。清云く、好箇消息なり。僧云く、子?し母啄す。学人の分上に於て、箇の什麼辺の事を成し得るや。清云く、箇の面目を露すと。所以て鏡清の門下に啄の機有り」というところがあります。

 今読みましたのは岩波文庫本に出ている読み下しです。これに異を唱えているのが前回私がご一緒させて頂きました芳澤先生です。例えば四行目の下のほうに「清云く、好箇消息なり。(せいいはく、よきしらせなり。)」と読んだのですが、伝統的には(こうこのしょうそくなり)と読んだのです。ほかにも色々あるのですが、この様に禅の場合は文献の読み方というのは未だに決定していないのです。面白い話もありまして、昔は随分乱暴な読み方をしたみたいですね。「多口阿師」(たくのあし)と読みます。おしゃべりなお坊さんということですね。ところが明治時代のある和尚さんはこの言葉を「タコの足」と読んでいたそうです。「タコの足は八本であろう。花は紅、柳は緑と同じじゃ。それそのままが真理のあらわれじゃ。」と説明していたそうです。

 語注を見ていただけますか。主人公は鏡清道?(きょうせいどうふ)という雪峯義存(せっぽうぎそん)という方のお弟子さんで大変有名な中国の禅僧です。鏡清道?がこのことを主張していたというのです。何を言っていたかといいますと次です。これは「?啄」(そったく)と読みます。下のほうの「啄」はもう一本線が入ることもあります。石川啄木のタクです。啄木鳥です。「オノマトペ」ですね。だから、「タクタクタクタク」。上は「ソツソツソツソツ」。と音を当てはめている感じなのです。昔の中国の人はこう考えました。鳥が孵化するとき、卵の中のヒナが卵の殻をつつく、「ソツソツ」とつつく、そうするとそれに気が付いた母鳥がそれに応じて外からその殻を「タクタク」とつつくその様なことなのです。そのタイミングがうまく合うとヒナがこの世に誕生すると昔の中国の人は考えたそうです。それを鏡清道?というお坊さんが禅の世界の師弟関係に当てはめようとしたのです。つまり、修行者がヒナです。修行者が一生懸命に自分のエゴという殻をつついて破り、新しい自分に生まれ変わろうとしている。それを見計らい師匠が外側から助けている。それがピタッとあえば悟りの世界が開けるのであろうと。それを説明しているのが先程の文章です。

 「大凡そ行脚する人は」というのは禅の修行を志す人はという事です。「須らく?啄同時」それがピタッと一つにならなければならない。「眼を具し」というのは「見識を備え」という意味です。「?啄同時の用有って」というのは、そういう働きがあってということです。「方めて衲僧と称すべし」とは、はじめて禅僧といわれるのですということです。「母啄せんと欲すれば」とは師匠が何とかこの人に悟らせてやりたいとがんばるのであれば、修行者の方も頑張らざるをえない。「子?せんと欲すれば母啄せざるを得ざるが如しと」とは修行者が一生懸命頑張れば、指導者の方もそれに応えなければならないだろう。この様なことを教えの中で説いていたのですね。そして、それに問答があるのですが、「所以て鏡清の門下に啄の機有り」というように鏡清道?はそのことを非常に大事にしていたということです。ここまでが第一段落です。

 次に、南院(なんいん)と読みます。語注にもありますが南院慧?という中国の禅僧なのですが、この人の場合は「衆に示して云く」修行者にいったと。「諸方は只だ?啄同時の眼を具するも、?啄同時の用を具せずと。」あちらこちらの禅僧たちは?啄同時の見識は持ってはいるが、働きを持っていない。頭では理解しているが実行できてはいないといっているのです。「僧有り出でて問う、如何なるか是れ?啄同時の用」修行僧が質問して、師匠さま、働きが無いといいますが働きとはどの様なものなのですかと尋ねると「南院云く、作家は?啄せず、?啄すれば同時に失す。」南院慧?はいいました、優れた禅僧は?啄しないのだ、?啄するとたちまち失敗してしまうといっているのです。
つまり、言い換えれば人工孵化ではだめですよという事です。卵は自然に孵らなければだめですよといっているのです。師匠と弟子との関係にあって師匠に助けてもらった悟りでは、だめだといっているのです。その様なことに関係なく弟子は自分で悟りを開かなければならないといっているのです。ただ、後になって考えればということですが、師匠の一言がきっかけになった。それは認めてもいいが、助けを期待しながら修行しているのではだめだということです。
ここでいっているのは「作家は?啄せず」すぐれた禅僧はその様なことはしないのだと「?啄すれば同時に失す」です。

 日本の白隠禅師の例をお話ししましょう。ある夏の早朝か夕方にお寺の庭で蝉の孵化をご覧になっていたそうです。7、8年地中で生きていた蝉が外に出てきて、木のところで殻から出てきて羽を広げて孵化しようとしていたそうです。白隠禅師が思わずその蝉を助けてあげようとつついてやったそうです。するとまだ柔らかい羽がとれてしまったというのです。それを見て禅師は申し訳なく思うと同時に、これは禅の修行にあっても同じだ気づかれたのです。師である私が余計なことをするとかえって雲水たちの見性を損ねてしまうと。彼らが自分の力で得る悟りを逆に損ねてしまうという事なのですね。
つまり「作家は?啄せず、?啄すれば同時に失す」とはこの様なことをいっているのです。そこで父性的、母性的に戻ります。この二つは、仏教で説く自力と他力の話にもなるのです。『他力』という本を書いている五木寛之先生が、石原慎太郎都知事と他力についてお話をしたそうです。都知事は日蓮宗の信者さんだそうです。典型的な自力の信奉者、イメージはその様な感じですね。「あまり他力々というな」と五木さんを叱ったそうです。そしてこういう話があるぞといったのですね。

 宮本武蔵が吉岡道場の一門と決闘する場所に向かう道筋に小さな祠があった。その祠の前でふと立ち止まり、その祠で手を合わせて何とか助けたまえと武蔵が祈ろうとした。その時に、イヤだめだ。神仏に頼るようでは最初から負けている。これではいけないと走って去り、そして吉岡一門と戦って勝った。自力とはこれだと都知事は言ったんだそうです。すると五木さんは、その様に思わせてくださったことこそが他力だと答えたそうです。なかなか他力と自力の論争も尽きないものですね。

 つまり、禅というのは日本の宗教の中では父性的な側面が強い、というのは自力の宗教だからかもしれないのです。それに対して浄土真宗などは他力なのですが、またややこしいのは自力だけ、他力だけという宗教は存在しないのです。禅の世界でも私達修行者はこの『碧巌録』にあるような公案を師匠から与えられ、頑張って解決しようとするのですが、一生懸命自分の力で解答を見つけようとしても答えが出てこないのですね。自分で作り上げた答えというのは「死見解」というのですね。
今の日本語で言うと「見解」と読みますけれども私たちの世界だと「ケンゲ」と読みますね。そのように理論的に解決された見解ではだめなのですね。ところが坐禅をくんでもうだめだと、自分では答えが見つからないといってなお頑張って続けているとふっと、不思議なんですが閃くのです。その答えを老師のところに持っていくと、それは昔から伝わっている見解と同じだと褒められることが、ごくまれにあります。つまり、答えはむこうから「やって来る」のです。

 そのことについて山田無文老師がわかり易く説明してくださっています。片手の音を聞いて来いとか、趙州無字の公案で犬に仏性があるかとか、色々問題があるけれども、それらはその問題をつくった坊さん達が心の底から搾り出した一句だ。だから片手の音を聞きたかったら、片手の音を問題にした白隠さんの境地になれ。趙州和尚の無がわかりたかったら、趙州和尚の境地と同じになれというのです。ラジオがあるでしょう、NHKの番組が聞きたい時はNHK放送局の周波数にあわせますね。FM局の音楽が聞きたかったらその局の周波数に調整するでしょう。それと一緒です。坐禅をくんで公案を解決するというのは一つ一つの公案の持っている周波数にお前が合わすんだと。
ですからラジオ第二放送にあなたのラジオのチューニングがピタッとあえば自然に聞こえてくる。公案の解決もそうだ。隻手の音を聞きたかったら白隠さんの隻手という境地になれ。そうすると隻手の音が聞える。これを道元禅師は「我、萬法を証するは迷いなり。萬法来たりて証するは悟りなり。」とおっしゃったのです。言葉は換えても同じ世界の消息をいっています。自分が宇宙の真理を証明できたと思っている限り、それは迷いです。そうではなく、真理そのものがあなたを証明に来るというのが悟りなのだといっています。

 ですから、皆さんも坐禅をくんだことがあるでしょう。それは調えるということでしたね。体を調えて、呼吸を調えて、心を調えるというのは臨済禅の公案の解決にも当てはまるのですね。調えるというのは周波数をあわせること。禅の言葉というのはそれぞれの禅僧がぎりぎりの所から搾り出した言葉ですから、その人たちの境地に自分たちも成れれば、そのいわんとするところがおのずから共鳴して出てくるはずだ。その様な訓練を重ねることで、本来の自分に目覚めましょうよ。そういうスタンスなのです。「闇の世に鳴かぬからすの声聞かば生まれる先の父母ぞ恋しき。」これは白隠禅師が、隻手の音にあわせて歌った和歌です。闇の夜に月明かりも無い真っ暗な夜に黒いからすが、鳴いてくれるならともかく鳴かないカラスの声を聞いたらまだ生まれてくる前の父母が恋しいのです、ということです。つまり光と闇という対立の世界ではなく、昼と夜の対立ではなく。夜昼を超えた暗闇の世界です。自分が生まれる前の父母が恋しく思われるのです。
ですから禅の世界というのは、ジョンストン神父の言われるように、「甘える」という言葉から母親的なものを悟りとして求めているのではないのかというアプローチがあるのかも知れませんが、じつはもう一つ向こうの次元を問うているのです。つまり、父親と母親が生まれるその前の世界が恋しいのです。そこから再びお父さんとお母さんに別れている世界に帰って来るのです。その様な本来の別の次元の世界を表しているのが片手の音ということです。だから片手というのは、右手と左手の二つに分かれる前ということです。まずその世界を実際に体験しなさい。そしてそこから、私たちがこの様に普段生活している現実の世界を本当に見直すことができますよと主張しているのです。


▼質疑応答

Q:臨済、黄檗、曹洞とありますが修行方法の違いについて明確に区別していただけますか?

A:同じ禅宗なので修行方法といいましても、坐禅が基本になります。曹洞宗の場合ですと本来悟っているのだからという立場なので坐禅というものは手段ではないのです。坐禅を組むことが仏であるという考えです。
一方臨済宗の立場は始覚(しがく)といい本来悟っているのだけれども、それを一人一人がやはり確かめる必要がある、その様な意見があるだろうと。ですから坐禅というのは目的でもあり手段でもある。
黄檗宗は江戸時代の初期に最後に日本に伝わった禅の一派なのですが当初は念仏禅といいまして「ナムオミトフー」と念仏を唱えさらに坐禅をくむ。中国ではインドから伝わった仏教というのが最後に残ったのが禅と念仏。それが一緒になって念仏禅になりました。日本の場合は興味深いのですが、念仏禅というのは絶えてしまい現在の黄檗宗は内容は臨済禅と変わりません。坐禅と公案を用いています

---------------------------------------------

Q:仏教は多神教に属するのでしょうか?

A:仏教もたくさんの神、仏、菩薩を信仰の対象にしています。


---------------------------------------------
Q:隻手の音声とは?

A:隻手の音声というのは江戸時代の白隠禅師がつくった禅の問題で、私たちが左右の手を合わせるとパチンと音がする。両手の音ですね。では片手ならどうか?片手の音を聞いて来いという問題です。「単絲線を成さず、隻手音声を成さず」。『水滸伝』という小説の中にあるのですが、糸は二本を合わせてこそより丈夫になる。両手がそろってこそ音が出るのだ、という意味だそうです。片方だけでは役に立たないというが、じつはそれこそが素晴らしいのだという発想で、価値の無いものこそ優れていると主張したいのでしょう。そのあたりから着想を得て作られた問題かもしれませんね。

 右手と左手という相対の世界。相対と絶対といいますね、私達は相対の世界に生きています。対を相にしている世界なのですが、その世界から対を絶した世界を見なくてはいけないのです。絶対の世界とは対を絶った世界なのです。例えばデカルトの言葉に「我思うゆえに我有り」という言葉があります。デカルトが近代的自我を成立させた言葉ですね。先ず我というものが有り、我が考える、だから我というものが存在するという。これは嘘です。この宇宙にそんな我などないのです。何も無い我などありません。考えている我、呼吸している我、坐っている我、泣いている我、そういう我しかありません。思うなどという動作も単独で存在しません。わたしが思う、大介が思う、愛ちゃんが思う、そこに思うがあるのです。ところが相対の世界では二つに分けないと理解し合えないのです。ですから言葉や文法の奴隷となってしまうのです。本来の世界は分けられないのです。だから我というものも抽出できないのです。このような世界が対を絶した世界です。だから左右の両手の世界から片手の世界に入りなさいということです。片手の世界が本当にわかったら、現実の相対の世界の真の姿が見えます。左右の手をパチンと合わせると音がする。これは現実の世界です。音を出す以前の音は片手の中にある。この聞こえない音を聞いて初めて聞こえる音がわかるのです。

 

tokyo-zen-center. All rights reserved.