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花園大学・東京禅センター共催 特別企画
「 科学と仏教の接点」脳認知科学と仏教
講座レポート
2009.5.16

現代科学の進歩は従来の宗教の非科学性を指摘し、科学的な思考が当たり前になりつつある現代は従来の宗教よりも一層の説明責任を要求されるものとなってきています。また、科学には未だ限界があり説明のつかないところに宗教に頼らざるを得ない所があり、科学の発達に伴い別の面で宗教は必要とされてきているといえます。
そのような中、花園大学の佐々木閑先生の発案により様々な科学分野の第一人者の先生をお招きして科学と仏教という一見相容れない分野に共通する接点、仏教の科学的な・科学の仏教的な見解を両分野から見ていこうという趣旨で、本講座は開かれることとなりました
昨年九月六日に東京大学駒場キャンパスで開かれた第一回「科学と仏教の接点」講座は来場者数250名を越え大盛況となりましたが、議論内容のスケールの大きさもあり、両先生方とも3時間の講演時間では充分な議論をする事が出来ず、議論半ばという状態で講座は終了となり、思いの残る結果となってしまいました。
そのため、第二回「科学と仏教の接点」講座を近くに開き、再び藤田一郎先生をお呼びして、一回目の続きをしようということとなりました。
そして、平成二十一年五月十六日に東京世田谷龍雲寺本堂をお借りして、第二回「科学と仏教の接点」講座を開く運びとなりました。今回も定員一杯のお申込み、御来場いただきました。また、今回も東京近郊寺院の若手和尚様には忙しい中御加担いただきありがとうございました。以下に簡単にですが講演内容をまとめて掲載させていただきます。


藤田先生 佐々木先生

藤田一郎 先生

○前回より、「脳認知科学」とは 
仏教は【救い・安らぎ・神秘】。科学は【物理・変人・技術競争】等様々なイメージがありますが、真理の追究という共通する目標があります。仏教は精神(内の世界)の真理を追求し、科学は(外の世界)を追求してきました。しかし、科学も脳科学の誕生により、仏教など宗教の扱う(内の世界)を範疇とするようになってきました。
脳科学の範囲は幅広いのですが、藤田先生の専門とする脳認知科学はその中でも「心」に近いものを研究対象としております。

前回は藤田先生に日常の知覚・認識の不思議さを、錯視を起こす図を例にプロジェクターを使って説明して頂きました。その中で藤田先生によって、日常生活で人間の「見る」と言う行動は実際の世界を脳と言うフィルターを通して主観的に見ることで、実際の世界は見ている世界とは違い、仏教でいう「ありのままに見る・あるがままに見る」ことは脳によるフィルターを通して見ざるを得ない人間にとって大変難しいという科学の一応の結論が示されました。

○「わたし」をつくる「記憶」
今回は「錯覚・錯視」に続いて「わたし」をつくる「記憶」について脳科学の見地より講義いただきました。科学では「記憶」とは脳が司るもので、脳を知ることは「わたし」を知ることになります。
我々は「わたし」という人間を瞬間々の記憶、一秒前・十分前・一時間前・・・の記憶によって実感します。もし「記憶」が寸断されてしまうと、同じ「わたし」は存在しません。講演では、実生活で藤田先生の祖母が晩年アルツハイマー病に罹ったときのお話しがありました。
一瞬一瞬のやり取りは出来るが、次の瞬間に何をしたのか忘れてしまう。連続していない記憶の祖母の過去から続く絶対の「わたし」はどうなってしまったのか。実生活で脳科学を実感する機会であったそうです。

○「記憶」の様々な切り口
「記憶」とはなんなのでしょうか、「記憶」といっても脳科学で言う「記憶」は切り口により様々に分類されます。
・ 第一に、記憶には長さがあります。短時間だけ記憶している短期記憶(これは特定の作業時のみ覚えている事例から、作業記憶とも呼ばれます)と、それが長期に移行して長期記憶になるものがあります。
〜短期記憶の例
スーパーに買い物に行った時の駐車場所を翌日(もしくは来週)まで覚えていない。とりあえず必要な電話を掛ける時に覚えた電話番号もその次の瞬間には忘れている。

・第二に事物に関連をもたせて記憶する連合記憶、またそれとは逆に、何も関係・連合するものがなくても行動が変化する非連合記憶があります。
〜連合記憶の例
今日龍雲寺で藤田先生が講演会を受講したということで次に龍雲寺に来た時
藤田先生の顔を思い浮かべる。また、病院で注射を受けた赤ちゃんが病院を見ただけで泣きだす。ブザー音で涎の出るパブロフの犬の条件反射もこの類です。
〜非連合記憶の例
講座では藤田先生がいきなり机を「バン」と叩かれ、二回・三回と続けました。これは「慣れ」のメカニズムで一回目は驚くが二回目・三回目には体が「記憶」し、自動的に判断して反応しなくなります。
赤ちゃんの知能の発達もこれに関係してます。毎日普通に通る棚にいつもと違った置物があると首を反らして反応しますが、次からは普通に戻ります。
アメフラシにも同じ実験があって、一回踏みつけられると反応し戻るが二回目以降はそのまま反応しなくなります。
〜プライミングの例
非連合記憶の実験にプライミングというものがあります。複数の被験者に単語を見てもらい、色々な単語の中に「money」「monkey」という単語どちらかを入れておきます。一週間後に前に見てもらった単語のこととは関係なく、「m□ey」の空白に自由に字を入れてもらいます。すると、「money」を見た人は「money」と書き「monkey」を見た人は「monkey」と書きました。
これは日常生活で意識していない所で入ってきている情報に我々の判断が影響を受けていることを示しています。
結婚や家の購入、受験する大学等、人生の重大な決断も数週間の内に入った情報に影響を受けている可能性があるのです。

・第三に言葉で表現可能か不可能かで宣言記憶(顕在記憶)・手続記憶(潜在記憶)があります。
〜宣言記憶(≒顕在記憶)の例
スペインの首都はマドリード。3×7=21等。
〜手続き記憶(≒潜在記憶)の例
鏡に映った二重の円の線と線の間を鉛筆でなぞる。脳の手術で宣言記憶を失くした人は毎日初めてすることの様に思っているが、鉛筆でなぞる技術は日々上達する。(出来事の記憶は出来ないが身体が覚えている)また、前の条件反射(パブロフの犬)も頭とは関係ない身体が覚えている記憶に対する反応です。

記憶はこのように様々な切り口がありますが、全てに共通して言える事はそれによって行動が変化するという事です。

○「記憶」と脳
記憶には切り口により様々な種類があるということにより、記憶には少なくとも、覚える、記銘する・保持する・取り出す、思い出す、等の過程がありそれを司る脳の部位が違うということがいえます。
また、脳の様々な部位の中にある神経細胞間の接続部分であるシナプスによってこれらの記憶が作られていることが説明されます。
脳には約一千億の神経細胞と二万(800〜25000)のシナプスがぎっしりと詰っており、そのどの細胞のどの位置に情報を与えるかによって記憶が変わっていきます。使用頻度により神経細胞経路の大きさも変わり、効率の変化も起こります。

このように、記憶の種類は切り口により様々に分類され、脳の中でもそれぞれ司る場所が違います。また記憶はそれを司る特定の物質があるわけではなく、神経伝達の効率や様々な連関によっています。それによって過去・今日・明日の「わたし」があるというのが脳認知科学からの「わたし」の考え方だといえます。

佐々木 閑 先生

○仏教以前(バラモン教)と仏教(主に部派仏教)間での「わたし」の違い

仏教は「わたし」をどうとらえていたのでしょうか。インドでは仏教以前の「わたし」の世界観はバラモン教によるものでした。バラモン教では「梵天・梵」(ブラフマン=絶対者・宇宙の根本原理)に対して「わたし・我」(アートマン=個人の本体)が位置づけられ、また宇宙全体を統括し、動かす梵天の一部として「わたし」も絶対的な存在であり、梵我一如(絶対者との一体化)が究極の平安とされました。
バラモン教の教義は梵天が絶対者として決めた制度であるカースト制(四姓制度)を含むのに対し、釈尊の仏教はこれに対して全ては皆平等であるという批判的な立場とり、様々な職業のものの出家・帰依を許すものでした。仏教のこうしたカースト制の否定は従来の梵天を中心とした世界観を否定するもので、そのため宇宙を動かす絶対的な力(梵天)に変わる理論として、仏教は原因と結果の連続による「法則性」を教義の中心に置きました。
このように仏教は時間を越えた実在・神との一体化(梵我一如)を否定し、絶対的な「わたし」という存在は無く(無我)、原因と結果の「法則性」の中に「わたし」を位置づけました。

○五位七十五法の関係により成り立つ「わたし」
心(宇宙)の分析は釈迦に続く僧侶たちにより教学・学説の組織・体系化が行われ、その中でも理論では説一切有部という部派が仏教に大きな影響を与えました。
〜仏教の一大哲学・アビダルマの完成
説一切有部では物質・精神・エネルギーなどにより一切法は大きく五位、さらに細かく七十五法に分類される法により成立し、その組み合わせによって「わたし」「宇宙」等の世界がつくられていると考えます。
理論的に「わたし」を細かく分けていくと「わたし」という永続する絶対的な存在はどこにも見つかりません、しかし相変わらず日常生活で物を見たり聞いたりする「わたし」はあります。そこを、人間の本質・実体は、様々な関係(法の組み合わせ)によって存在すると説明したのが五位七十五法です。
〜心の連続性、六識と六境。心識と心境
科学でいう「記憶」を説明する上で仏教には「心」という認識器官があります。仏教は人間を中心と置いて、認識する器官を六種(眼・耳・鼻・舌・身・意)に分けます。その中の五つは外側に対象を持つのに対して意(心)だけは対象を内側(心)に持ちます。心が心を認識する訳ですが、ここには後で「刹那滅」で説明されるように時間の差があります。説一切有部では心は大きく心の連続性としか説明されておりませんが、存在は空間的にも時間的にも変化してゆくもので永遠に続く存在は無く、心も例外なく刻々変化していくと説いています。

○説一切有部の時間軸の捉え方(三世実有・刹那滅)
前で説一切有部は、世界は実有であると説きましたが、時間軸の考え方として、過去・現在・未来はやはり実有なのですが、三世に連続して存在することは無いと考えました。世界は「刹那」に、「現在」は「過去」に「未来」は「現在」にと領域ごと移り変わると考えました(三世実有・刹那滅)。
例えば、映写機に移されるフィルムのようでフィルム一こまが一刹那であり、それが転々と映っていくことでまるで連続した世界のように見えます。しかし、フィルムの移動が起こっているだけで連続しているものはありません。スクリーンに映っているのが「現在」で映り終わって巻き取られたのが「過去」になるわけです。
まとめとして佐々木先生は、現代科学はシナプスの変化の状態が記憶であり、特定の物質が記憶を作るのではないと言いますが、このことは仏教が永遠に続く絶対的な「わたし」は無い、しかし原因・結果の集合離散による「法則性」により存在すると言っている事と共通している(似ている)と述べられました。

○ 講演後の対談
講演を終えて、藤田先生は仏教に対して、電気信号が脳の情報のやり取りをするという考えのない一昔、二昔も前に(釈尊の時代)七十五法の考え方は科学者として十分考えられることである(科学的・理論的)。また、仏教が無いと言う「我」(「わたし」が「わたし」だと思っている「自意識」)に関しては他人になって確かめる術が無い為、現代科学でも検証出来ず、心の証明も今のところ有るとも無いとも言えないと述べられました。
〜「知」では解決出来ないもの
また、最後に素朴な疑問として、自分は神は信じないが色々苦しい事などがあると自然と「お願いする」また、路傍の石仏になんとはなく手を合わせる自分がいる。佐々木先生は仏教は「法則」を知ることで、その為厳しい修行をするのだとおっしゃるが、それが出来ない人はどうするのか、乗り越えられない苦しみ、どうしようもない心に仏教はどう答えてくれるのかという藤田先生のご質問がありました。
それに対し佐々木先生は、自然科学も誕生した当時、神の創った素晴らしい法則を証明することを目的とし、初期の段階では仏教にすごく似ていた。しかし、突き詰めていくとどこにも神が見つからなくなりとうとう神と決別して「知」の探求のみになってしまった。
釈尊は現世で「法則」を知る修行ができない人は当時インドでは輪廻の思想がごく当たり前であったので、「次を待て」と言っていた。
しかし仏教が輪廻思想の通じない世界宗教となり、全員の救済を標榜することが不可能となった時、仏教は慈悲の絶対者を想定し大乗仏教へと変化していきます。(釈尊が否定したバラモン教でいう全てを決定し統括する高圧的な絶対者とは異なります)「知」でどうしても解決できない部分をカバーする思想が、そうした「お願いする」こころを救済する手段となったのでは、と初期仏教の大乗仏教への展開が述べられました。

 

 

第二回「科学と仏教の接点」講座は第一回目の続きとして藤田先生を再び講師としてお招きしましたが、また、まだまだ両先生とも話が尽きないといった所で終わりとなってしまいました。
それだけ科学と仏教の両分野での対談は必要でありまた興味が尽きず、これからも積極的に行われていかなければならないということなのでしょう。
第三回「科学と仏教の接点」は合原一幸先生(東京大学・数理科学者:脳やゲノム・カオス工学)をお招きしての講演会です。

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