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Night-stand Buddhists ナイトスタンド・ブディスト
仏教徒ではなく、しかし仏教には興味を持っている人々がブッダの教えにふれ、独りしずかに自らを考える人。

概要:毎週お話を更新、瞑想や坐禅、また小さな読み物としてどうぞ参考にしてください。監修は佐々木先生。担当 羽賀浩規。底本は岩波文庫『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳より

2012/2/3

聡明な人は順次に少しずつ、一刹那ごとに、おのが汚れを除くべし、―鍛冶工が銀の汚れを除くように。
銀は磨き方次第でプラチナよりも美しい輝きを放つと言われますが、やはり使っているうちに汚れ、黒ずんでしまうそうです。その防止として考えられるのが、一つ目は、メッキをする。二つ目は、汚れたことに気がついたらまた磨きなおす。三つ目は、汚れないように日頃からこまめに手入れをする。 さて、みなさんはどの方法がよいと思いますか?

2012/1/27

落ち着いて思慮ある人は身をつつしみ、ことばをつつしみ、心をつつしむ。このようにかれらは実によく己れをまもっている。
「慎独」とは、独りでいるときを慎むこと。この言葉の出典は中国古典『大学』にある。自分一人でいるときでも身を慎しみ、道をはずれないようにするという意味である。 「西郷南洲(西郷隆盛)遺訓」の中に、こんなやりとりがある。誠の心(真心)を養うために特別なことはあるのかとの問いに対し、西郷は、この上もない真心の境地を養うにはまず独りを慎むことである。独りでいると自分勝手なわがままや、心弱く怠ける思いを起こしやすい。ここが善と悪との分かれるところであり、最も心を用いなければならないところであると。 これがまた難しい。ついこんなもんでいいかと最善を尽くすことを諦め、いい加減になってしまう我が身・・・そんな時は「ホントに、これでいいの?」と自問自答することを心がけている。

2012/1/20

心がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。心について慎んでおれ。心による悪い行ないを捨てて、心によって善行を行なえ。
お正月に管長さまのところにご挨拶にまいりますと床には新年を祝う言葉ではなく、「識羞」のお軸が掛けられておりました。中国宋代の禅僧、五祖法演に「我参ずること20年、今まさに羞(は)じを識(し)る。(私は二十年もの間修行をしてきたのに、まだまだ身についていない、まさに身の縮まる思いがする)」の語があります。「識」ははっきりと認識すること、「羞」は身の縮まる思いです。自分勝手な都合ばかりで生きる私には痛い言葉です。

2012/1/13

ことばがむらむらするのを、まもり落ち着けよ。ことばについて慎んでおれ。語による悪い行ないを捨てて、語によって善行を行なえ。
名言に失言。私たちが普段から使う言葉は、一旦口から飛び出せば、引っ込めることはできない。 詩人の大岡信さんに“言葉の力”というエッセイがある。その一部分に「人はよく美しい言葉、正しい言葉について語る。しかし、私たちが用いる言葉のどれをとってみても、単独にそれだけで美しいと決まっている言葉、正しいと決まっている言葉はない。ある人があるとき発した言葉がどんなに美しかったとしても、別の人がそれを用いたとき同じように美しいとは限らない。それは、言葉というものの本質が、口先だけのもの、語彙だけのものではなくて、それを発している人間全体の世界をいやおうなしに背負ってしまうところにあるからである。人間全体が、ささやかな言葉の一つ一つに反映してしまうからである」と、言葉の本質について示されている。

2012/1/6

身体がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。身体について慎んでおれ。身体による悪い行ないを捨てて、身体によって善行を行なえ。
『驢鞍橋』の一節。行脚に出る僧に対して鈴木正三和尚が「心構え」を示された。「亦今時の出家、無信心にして、小用の後、手も洗わず経巻を取り、仏を礼するつれ也。彼に至りて、左様の格を作すべからず、(今の出家は信仰心が足りず、小便をしても手を洗わずにお経の本を手に取り、仏様を礼拝するものばかりである。向こうに行ってもその様な態度を取ってはいけない)」と。善行とは特別なことではなく、このような日常の些細なことを一つ一つ始末して行じることと示されました。何事においても身を惜しまず、労力をいとわずに身を使うことを教えてくれています。つい人が見ていないからといってずぼらになっていませんか?もちろん自分に言い聞かせています。

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