
2009/12/25
つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。つとめ励む人は死ぬことが無い。怠りなまける人々は、死者のごとくである。
つとめ励むとは、続けていくということです。こつこつ細〜く長〜く。死というのは言い換えると、自分を見失ってしまった状態なんでしょう。仏教の道をこつこつ歩いてゆけば、自分を見失わないよ。糸の切れた凧のようにあっちに行ったりこっちにいったりとフラフラしていたら、そのうち自分を見失って一生を棒に振ってしまいますよと仏陀が諭しているようです。坐禅も一日五分でもこつこつ長ーく坐ることです。
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2009/12/18
たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄とを捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することのない人は、修行者の部類に入る。
私の知人ですが、その方は、町のほうで定年までお仕事を勤められ、奥さまと山深い実家に戻って暮らすことになりました。ある冬の朝早くのことでした。私が車に乗って出かけていくと、その方は脚立を立ててカーブミラーを磨いていました。冬の朝、みんなが出勤する前に起きて凍って見えにくくなったカーブミラーを磨く。これを朝の日課として毎朝しているとのことでした。「定年した私にできるのはこれぐらいですから」と謙虚に話されたお顔がイキイキとしていたことが印象的でした。
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2009/12/11
たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。―牛飼いが他人の牛を数えているように。かれは修行者の部類には入らない。
雪を見たことがない沖縄の子供たちに、冷たくて白くてフワフワしていて、カキ氷の氷みたいでといくら説明しても本物の雪を感じてもらうことはできません。雪が降るのを見、手で触って初めて雪というものがわかります。法句経の教えが自分の生活の一部になり、仏教に出会えて良かったなぁと心から感じることができる。心の安心が得られる。そんな仏教ライフを目指したいものですね。
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2009/12/4
屋根をよく葺いてある家には雨の漏れ入ることがないように、心をよく修養してあるならば、情欲の侵入することがない。
長く雨が降り続けたある日ポトン・・・ポトン。雨漏りでした。なぜ雨漏りがしたのかと屋根に上がってみると雨漏りした真上にはたくさんの杉の枯葉が瓦にたまっていました。たまった枯葉が雨水をせき止め瓦の隙間から家の中に進入したようでした。いつの間にかたまった枯葉のように心にもごみがたまってしまっているかもしれません。ときどき取り除いてあげましょう。
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2009/11/27
まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、まことではないとなす人々は、正しき思いにしたがって、ついに真実に達する。
「いつも目覚めておれ」とは仏陀の戒めです。まことであるものを、まことであると知るその眼を私たちは持ちたいものです。情報や流行に踊らされている時はそれに気付かないですよね。後悔先に立たず。まずは冷静になること。朝の爽やかさ、夕焼けの素晴らしさ、ちょっとした季節の移ろいを感じる心。そんな余裕を持つことで、案外冷静さを取り戻すことができると思いませんか。
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2009/11/20
この世のものを不浄であると思いなして暮し、(眼などの)感官をよく抑制し食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は、悪魔にうちひしがれない。―岩山に風がゆるがないように。
お釈迦さまは断食やあらゆる難行苦行では悟りは得られないと山を降りました。疲れた体をガンジス川で洗われ、村娘スジャータの施された乳粥を頂かれ体力を回復なさいました。そして体を調え、呼吸を調え、菩提樹の下に静かに坐し、お悟りを開かれました。浮かれることなく節度を持ってあらゆる心に潜む敵に惑わされることなく暮らすことが修行なのかもしれません。
2009/11/13
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。―このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば争いはしずまる。
誰でも限られた尊い命を生きている。仏陀がお生まれになるもっと以前のこと。常不軽菩薩と言われる[仏様]方がおられました。粗末な着物を着て托鉢する菩薩を見て、村の子供達が馬鹿にしてからかったり、石を投げつけたりしました。そんな子供にも「人は皆、仏様になる種を持っている」とおっしゃって頭を地に付け礼拝されたそうです。かの良寛さんはもっとも尊敬する菩薩として、この常不軽菩薩を生涯慕われたそうです。
2009/11/6
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。
あるとき一人の友人から電話がかかってきた。「人を恨んでもよいのですか?」それは最近最も信頼していた人から裏切られたことへのやり場のない気持ちを誰かに聞いて欲しかったのかもしれません。しばらく話を聞いて最後にできるならその人を恨むより、かわいそうな人だと思うようにしてみてはと言葉を掛け電話を切った。時として人を恨むことはあるけれど、それは解決策ではないのです。
2009/10/30
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。
人類が進歩し科学が発達しても、地球上では恨みによる報復が繰り返されています。遠く離れた国で起こっている殺戮や紛争も、決して私にとって無関係ではないんですね。根っこにあるのは心の問題。広島の原爆で兄を亡くし、9.11ニューヨーク同時多発テロで息子さんを亡くされた伊東次郎さん(74)は原爆資料館に訪れた米国人教師らに「憎しみあうことではなく、痛みを共有することが大切」と語られました(毎日新聞)。
2009/10/23
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。―影がそのからだから離れないように。
子供のころ影って不思議だった。離れようといくら走っても離れずにピッタリとついてくる。日の当たらないような暗闇に入ってしまえば、影は見えないけれど小さな電灯でも影はまた現れる。私たちが心に思うことは影のように知らず知らずのうちに言葉や行いにあらわれている。
2009/10/16
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。
―車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
法句経(ダンマパダ)の最初の句、自分の心によって世界が変わるというお話。必ずしも自分の心境だけが自分の世界を作っていくとは言いませんが、確かにそう言われればそうですね。自分のその時の心境によって、ものの見方[だったり]や言葉の発し方、行動が大いに左右されるものです。イライラして腹を立てたまま子供を叱った後は「何でもう少し冷静に話せなかったんだろう」と自己嫌悪に陥ることも・・・。これがもう既に、苦しみの種。古人曰く「心こそ心迷わす心なれ、心に心、心許すな」