
2010/12/31
同行する仲間が少ないのに多くの財を運ばねばならぬ商人が、危険な道を避けるように、また生きたいとねがう人が毒を避けるように、ひとは諸々の悪を避けよ。
目的地を設定してナビゲーションに近道を指示したら、細い道をぐるぐる回って結局遠回りになって、こんなことなら大きな道を行くんだったと思ったことありませんか?しあわせへと向かう旅に近道はありません。確実に一歩一歩、地道に進んでゆきましょう。
![]()
2010/12/24
「その報いはわたしには来ないであろう」とおもって、善を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でも満たされる。気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、やがて福徳にみたされる。
善きも悪しきも、すぐにはその姿を現さないことを知らなければなりません。そして、わずかな水一滴の力を軽く見てはいけません。「雨だれ石を穿つ」という諺があるように、どんな小さな力でも根気よく精進努力すればいつかは成果を得られるのです。信念を持って生きている人は、すでに豊かな心に満たされているのでしょう。
![]()
2010/12/17
まだ善の報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遇うことがある。しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福に遇う。
すべてが自分に直接かえらない場合もあります。焦らず、短いスパンでものを考えないこと。陰徳あれば、必ず陽報あり(人知れず善行を積んだ者には必ずよい報いが現れる)淮南子の『人間訓』にある言葉です。自分を信じて行いましょう。
![]()
2010/12/10
人がもし善いことをしたならば、それを繰り返せ。善いことを心がけよ。善いことがつみ重なるのは楽しみである。
陰徳ということばがあります。感謝や見返りを一切求めない、人知れず行われる布施のことです。大きい事でなくてよいのです。その心は意識しなくともゴミが落ちていれば拾ってゴミ箱へ、履き物が乱れていれば揃えてあげるといった小さな普段の生活の中で自然に現れるものです。
![]()
2010/12/3
人がもし悪いことをしたならば、それを繰り返すな。悪事を心がけるな。悪がつみ重なるのは苦しみである。
昔、詩人の白楽天が樹の上で坐禅をする道林禅師に「仏法の根本の教えは何ですか」と尋ねました。道林禅師が「諸悪莫作 衆善奉行(悪いことをせず、善きことをしなさい)」と答えると、白楽天は「そんな事は三歳のこどもでも知っている」と。すると禅師は「ただ言うだけなら三歳のこどもでもできるだろうが、いざ実行となると、あらゆる経験を積んだ八十歳の老翁でも、難しいことだ」と諭しました。他人ごとと思ってませんか?
![]()
2010/11/26
善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ。
「魔が差す」ということばがあります。思いもよらぬ悪い考えが起きること、つまり「魔が差す」とは悪魔がわが心に入り込み、本来の自分を見失わせてしまうことを指しています。そして、そのまま悪魔が居座ることのないように・・・大丈夫ですか?
![]()
2010/11/19
最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きることのほうがすぐれている。
夕日が裏山に当たりもみじが燃え上がるように真っ赤に輝いている。ついこの間春が来て青々とした若葉が出て新緑の季節がきたと思っていたが気がつけばすでに晩秋。今朝洗面の折、鏡を見ると・・・頭がキラキラ光っている。なんと白髪の増えたこと。「諸行無常」この世のすべてのものが常に変化して、ほんのしばらくもとどまるものはない。ぼやぼやしているとあっという間に一日が終わってしまう。
![]()
2010/11/12
怠りなまけて、気力もなく百年生きるよりは、堅固につとめ励んで一日生きるほうがすぐれている。
『寶鏡三昧(ほうきょうざんまい)』というお経の一節に「潜行密用(せんこうみつゆう)、愚の如く魯の如し」とあります。他人に知られなくとも、ただ黙々とひそかに行うこと。たとえその姿が「おろかもの」と映ろうともいいじゃないかと。信じた道に最善を尽くすことの大切さを教えてくれています。あれこれ他人の評価を気にして動くのではなく、ただただ今に最善尽くすことができればかえって清々しい気持ちを頂けるのでしょう。
![]()
2010/11/5
愚かに迷い、心の乱れている人が百年生きるよりは、智慧あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。
「草にすわる」と題して詩人の八木重吉さんは詠いました。 「わたしのまちがいだった わたしのまちがいだったこうして 草にすわれば それがわかる」 ありのままに生きる草の動じない心、迷いのない世界が私を気づかせてくれたと。よく晴れた気持ちのよい日に時間を見つけて草に坐りにいきませんか?
![]()
2010/10/29
素行が悪く、心が乱れていて百年生きるよりは、修行あり思い静かな人が一日生きる方がすぐれている。
禅寺の玄関に「看脚下」という言葉を見つけることがあります。もちろん玄関で、足下を見なさいと言えば、「履き物を揃えて脱ぎましょう」ということになります。私が小学生の頃、靴を揃えて脱がずによく父に叱られました。靴を揃えて脱ぐということは知っているのにできないのです。なぜでしょうか?それはきっと「心ここにあらず」、今思えば玄関の先に私の関心ごとがあったからだと思うのです。テレビが見たい。宿題やらなきゃ。カバンを置いて遊びに行かなきゃ・・・。大人になって気づきました。どんなに急いでいても気持ちを落ち着けて今まで自分を運んでくれた足下を看て、その履き物を揃えて上がる。それは今本当になすべきことをしっかり見極めるための大切な練習だったということを。仕事でも勉強でも焦って先ばかりを見ていませんか?
![]()
2010/10/22
つねに敬礼を守り、年長者を敬う人には、四種のことがらが増大する。―すなわち、寿命と美しさと楽しみと力とである。
多くを経験されてきた人生の先達は私たちに幸せになる方法を示してくれています。そのひとつに耳を傾けてみましょう。昨年百一歳で遷化されました松原泰道和尚様は私たちに七つの幸せという教えを残してくれました。はじめの三つは幸田露伴さんが『努力論』で示したものです。@「惜福」。福を使い尽くし、取り尽くしてしまわず、将来に備えて、徳を積み福を預けおく心構え。A「分福」。自分の幸福を他の人と分かち合う心。B「植福」。未来を生きる人のために幸福の種を蒔くこと。そして「幸福とは人と人との関わり、縁というものの中にこそ見出されるものである」と考え、更に四つを加えて「七つの幸福論」としました。C足ることを知る「知足福(ちそくふく)」。D苦しみの中から困難の中にあっても、苦しみを人間として成長していくための福とすることができる「逆縁福」E一人ひとりの心に教えの灯火を点けようと願う「点灯福」。F「保福」。今いただいている幸せも預かり物、それ以上に他人の幸福を預かって持っているという思いを深くし、互いの幸せを願って福を大切に保ってゆくこと。
![]()
2010/10/15
自己にうち克つことは、他の人々に勝つよりもすぐれている。つねに行ないをつつしみ、自己をととのえている人、―このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神も、ガンダルヴァ(天の伎芸神)も、悪魔も、梵天もなすことができない。
「刻苦光明必ず盛大なり」。昔、中国に石霜楚円禅師という方がおられました。一心に修行にはげみ、眠気がくれば腿に錐を刺してまで坐禅をされ道を求めました。苦しんで求め、苦しんで学び、苦しんで行じるからこそ道は信念によって照らされ、開けてゆくことを教えてくれています。つい苦しいことから逃げてしまう自分・・・以前テレビのCM「今日の自分が明日を創る〜day after day」というキャッチコピーを思い出しました。あなたは今の自分でよいですか?
![]()
2010/10/8
戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。
あるお寺の前を通りかかると、掲示板に「言い訳するとき、自分に負けています」とありました。そういえば、つい朝のお勤めをさぼったとき、「昨夜は遅くまで仕事していたんだし・・・」などと考えて自分をごまかしてしまうこともあります。何かにつけて言い訳をする自分にとって耳の痛い言葉です。言い訳をしないように気をつけて生活してみるとさっと動くことができて心が楽ですね。
![]()
2010/10/1
無益な語句よりなる詩が千もあっても、聞いて心の静まる詩を一つ聞く方がすぐれている。
これはお釈迦さまの前世の物語。お釈迦さまが雪山(ヒマラヤ)でひたむきに修行しておられた時、その真摯な態度に感動した帝釈天(仏法の守護神)が、悪鬼(羅刹)のすがたに身をかえて修行者の前にあらわれて「諸行無常なり、是れ生滅の法なり(すべてのものが移ろいゆくものである)」と唱えた。驚き歓喜した修行者は、「今の二句は真理を説いてはいるが、それではどう生きたらいいかということが説かれていない。知っているなら続きを聞かせて欲しい」と鬼に言う。鬼は「腹がへって続きを唱えることができない。人間の血と肉をくれたらおしえてやろう」と言う。修行者は、真理を求めるために命を捨てる覚悟をし「それでは、私の身体をあげるから続きを聞かせてもらいたい」と答えると、鬼は「生滅を滅し終わって、寂滅をもって楽となす(生滅をこえたところに安心がある)」と後半の二句を唱えた。修行者はこれを聞いて驚喜し、後世の為に四句を岩に刻み約束通り身を投じた。その瞬間たちまち鬼は帝釈天の姿になって、やさしく修行者のからだを受けとめ礼拝したという。
必死になって何かを求めたことはありますか?
![]()
2010/9/24
無益な語句を千たび語るよりも、聞いて心の静まる有益な語句を一つ聞く方がすぐれている。
ついさぼりがちになっていた朝のお勤め、坐禅がまた続けられるようになったのは修行道場を離れる時の老師の「これからが本当の修行ですよ」というお言葉のおかげだと思っています。大勢の仲間の中でする修行はさぼりたくってもさぼれません。でも一人になるとどうか…忘れかけていたけどちゃんとこころに残っていました。「慎独(独りを慎しむ)」。誰も見ていない独りの時であっても天地に恥じぬよう最善を尽くしますという心持が気持ちのよい朝を作ってくれています。
![]()
2010/9/17
村でも、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む
土地は楽しい。
仏教詩人の相田みつをさんは「本気」と題して詠います。「なんでもいいからさ 本気でやってごらん 本気でやればたのしいから 本気でやれば つかれないから つかれても つかれが さわやかだから」聖者とはどんな人なのでしょうか?それは目の前のことに真剣に本気で取り組んでいる人。そんな人が近くにいることはとても幸せなことです。
![]()
2010/9/10
正しい智慧によって解脱して、やすらいに帰した人―そのような人の心は静かである。ことばも静かである。行ないも静かである。
こんなところに花が咲いていたのかと、ふと足元にあるかわいい花に気づくことがある。その時に思い出すのが南禅寺管長の故柴山全慶老師のことばである。(花は黙って咲き 黙って散って行く そして再び枝に帰らない けれどもその一時一処に この世の総てを託している 一輪の花の声であり 一枝の花の真(まこと)である 永遠にほろびぬ生命の歓びが 悔いなくそこに輝いている 静かに咲く花はもしかすると誰にも気付かれないかもしれない、でもしっかりと根を張り、今許された「此処」を生き切ることを身をもって教えてくれる。)
![]()
2010/9/3
大地のように逆らうことなく、門のしまりのように慎み深く、(深い)湖は汚れた泥がないようにーそのような境地にある人には、もはや生死の世は絶たれている。
「この秋は雨か嵐かしらねども今日のつとめの田草とるなり」先のことを心配してもしょうがない、済んだことを悔やんでも仕方がない。今日できること今しなければならないことは何か?しっかりと腹が決まった人の行いは気負うこともなくただただ淡々と積み重なってゆく。
![]()
2010/8/27
御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった人―このような境地にある人を神々でさえも羨む。
馬に乗って運動の正確さ、活発さ、美しさなどを目指すスポーツに馬術があります。2008年の北京オリンピックでは日本五輪史上最年長の67歳で出場する法華津寛選手が注目を浴びたことで馬術を知った方も多くおられたのではないでしょうか。人と馬が一体となって一つ一つの行う技は実に優雅で美しい。法華津選手が馬術の魅力について語りました。「最初に馬に乗ったときには、『乗せていただいている』お客さんという感じでした。それが、馬に乗る時間を増やして、練習を重ねていくにつれ、自分がパイロットに変わっていくんです」と。暮らしの中で自分の気持ちをパイロットのようにコントロールするには、よく落ち着いて自分をみることができるような時間を繰り返し持つことが必要なのでしょう。それが坐禅です。一日一度は静かに坐って身体と呼吸と心を調えましょう。
![]()
2010/8/20
すでに(人生の)旅路を終え、憂いをはなれ、あらゆることがらにくつろいで、あらゆる束縛の絆をのがれた人には、悩みは存在しない。
涅槃は、煩悩の炎の吹き消された悟りの世界。安らぎの境地であることをいいます。私が行きたい場所の一つ敦煌の莫高窟。そこにある涅槃仏は、世界一の涅槃像といわれております。お釈迦さまがこの世を去る時のお姿なのですが、まだ写真でしか見たことはありませんが、お顔の表情が清らかで、その安らいだお顔はとても臨終を迎えた人に見えません。なんと満ち足りたやさしいお顔なのでしょう。人生を生き切ったお顔なのかもしれません。そういえば気持ちよく寝ている人の顔を見て「幸せそうな顔して…」なんて思いながら、羨ましかったりしますよね。たまにはぐっすりと寝て、朝起きたらう〜と身体をのばして大きな呼吸をして一日をスタートさせてみましょう。
![]()
2010/8/13
覚りのよすがに心を正しくおさめ、執着なく貪りをすてるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている。
捨てることができたらなんと楽なんでしょうと思いながらもそうできずにいる自分がいます。「捨てきれない荷物のおもさまへうしろ」 種田山頭火さんは詠いました。救われるような気持ちで読めるこの句。さっさとその荷物を捨ててと思いますが、なかなかそうはいきません。その重さに耐えかねて潰れるか、それともその荷物の重みにあっちこっちふらふらしながらでもバランスよく担ぎながら行くか。バランス良く担ぐにはまずは自分の重みを知ることが大切かもしれません。
![]()
2010/8/6
賢者は欲楽をすてて、無一物となり、心の汚れを去って、おのれを浄めよ。
今、私に「捨てたいものはありますか?」と聞かれたら、家中に増えた不要なモノを捨ててすっきりしたいと答えるでしょう。「『捨て方』を考えるのは、『生き方』を考えること」と言われたのは、ベストセラー『「捨てる!」技術』(宝島社)の著者、辰巳渚さんです。ため込んでいるのはモノだけではありません。心にもあれこれため込んでいませんか?無一物とは、私たちが本来所有する物は一つもないことを示す言葉です。心や頭にいっぱいにため込んだ悩みや心配事を腹の底から吐く大きな息に乗せて捨ててしまいましょう。一度空っぽにしてすっきりすればゼロベースで物事をとらえることもできるし、正しい判断や行動へとつながるはずです。一日一度静かに坐る時間は常にそのような体質をつくる方法なのです。さあ気がついたらイスで結構です。背筋を伸ばして大きく呼吸をして坐ってみましょう。
![]()
2010/7/30
人々は多いが、彼岸に達する人々は少ない。他の(多くの)人々はこなたの岸の上でさまよっている。
以前私の師匠は言いました。この岸を離れ人生の航海において正しい師(仏)にめぐり合い、そしてその教え(法)をいただいて、人生のよき友(僧)とともに幸せという目的地(彼岸)に向かう。仏・法・僧の三宝をもって生きてゆけば大丈夫ということをやさしい言葉で教えてくれました。![]()
2010/7/23
高尚な人々は、どこにいても、執着することが無い。快楽を欲してしゃべることが無い。楽しいことに遭っても、苦しいことに遭っても、賢者は動ずる色がない。
「物持たぬ たもとは軽し 夕涼み」何ともこの暑い季節にはうらやましい歌です。なかなか(心の)袂いっぱいに物(思い)を入れていては重くてさっぱりとした涼しさを味わうどころではありません。いくら強情をはって「涼しげであろう」とがんばってもそこに涼しさはありませんよね。
![]()
2010/7/16
深い湖が、澄んで、清らかであるように、賢者は真理を聞いて、こころ清らかである。
開教偈というお経の中に、「無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇。(この世で最も深く妙なる教えは、無限の時をへてもめぐりあうことはむずかしい)」とあります。どんなに素晴らしい教えが目の前にあっても自分の都合ばかりではいつまでたっても受け取ることができません。波立たず、濁りもせず穏やかな水面であれば月の光も深い奥底まで届くように、素直な心であれば受け取ることができるはずなのに、怒りに波立ち、貪りに濁ることが邪魔をしてしまっていませんか?
![]()
2010/7/9
一つの岩の塊が風に揺るがないように、賢者は非難と賞賛とに動じない。
「八風吹けども動ぜず」八つの風とは 人の心を動揺させる利・衰(利益を得ること・失うこと)。毀・誉(陰に隠れてそしること・ほめること)。称・譏(面と向かってほめること・そしること)。苦・楽(苦しいこと、楽しいこと)。以上の8つの要素。苦しいことはもちろん、楽しいことも慢心や放漫を生じさせ、人の心を動揺させます。このような風に浮足立つことなく、岩のようにしっかり大地に足をつけてしっかりした心の根を張ることが大切です。
![]()
2010/7/2
水道を作る人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め、賢者は自己をととのえる。
私のお寺では裏山から水をひいています。ありがたいことに毎日たくさんの水が流れてきます。でも日照りが続くと水の量は減り、雨が降り続いて増水すると水は濁り、思うように水が流れてきません。石や砂が入らないように落ち葉がつまらないように水源地の点検をしなければなりません。それと同じように今日の自分はどうだったか?一日一度は静かに坐って自分を点検してみましょう。
![]()
2010/6/25
真理を喜ぶ人は、心清らかに澄んで、安らかに臥す。聖者の説きたまうた真理を、賢者はつねに楽しむ。
子どもの頃聞いたある漫才師の「地下鉄をどこから入れたか考えると寝られなくなっちゃう」・・・安らかに眠ることのできる幸せ。当たり前に思うけれど不眠症で悩む方は多いようです。何も考えずに寝よう寝ようとすればかえって目がさえてしまう。そんな時は姿勢を少し正して大きく呼吸をして坐禅をしてみましょう。
![]()
2010/6/18
悪い友と交わるな。卑しい友と交わるな。
善い友と交われ。尊い友と交われ。
「友」という字を眺めているとその中に「人」という字を発見した。その時思い出したのが、作家司馬遼太郎さんの書かれた「21世紀に生きる君たちへ」の中でのフレーズ。【人間は、助け合って生きているのである。私は人という字を見るとき、しばしば感動する。ななめの画が、たがいに支え合って、構成されているのである】。この支えがあってしっかりと立っていることができる。
![]()
2010/6/11
「これは、わたしのしたことである。在家の人々も出家した修行者たちも、ともにこのことを知れよ。およそなすべきこととなすべからざることとについては、私の意に従え」愚かな者はこのように思う。こうして欲求と高慢とがたかまる。
禅林寺永観堂の見返り阿弥陀如来の由来には諸説ある。浄土に往生する人々を浄土に連れ帰るとき、後方に向かって振り返った阿弥陀像であるという見方もあるという。
見返りとは一段高く構えて待ち構えるのとは違って同じ方向に向かっている姿であり、絶えずこちらを気にしていてくれる姿に親しみを感じるのである。![]()
2010/6/4
愚かな者は、悪いことを行っても、その報いの現れないあいだは、それを蜜のように思いなす。しかしその罪の報いの現れたときには、苦悩を受ける。
そのめざしている幸せは本当の幸せなの?昔は幸せを「仕合わせ」と書いたとも聞きました。人と人との間に生まれる喜びをあらわしたのでしょう。今感じている幸せは自分だけの身勝手になっていませんか?
2010/5/28
もしもある行為をしたのちに、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。
私たちは誰もが過ちを犯す。よくないと認めた上でどう出発するのかが大切なのである。
2010/5/21
もしも愚者が自ら愚者であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながらしかも自ら賢者と思う者こそ、「愚者」だと言われる。
以前、私が目にした一枚のポスター。真中に大きな耳の写真がありその右に少し小さめの心という字が書いてある。「耳と心」。そう!「恥」です。このポスターからは自分自身に向って心の声を聞き、自分自身のいたらなさ、愚かさを知ることで覚える恥ずかしさは、自分自身を謙虚にしてくれるのでしょう。
2010/5/14
「わたしには子がある。わたしには財がある。」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。
古代ギリシャの哲学者ソクラテスは「GNOTHI SEAUTON」とアテネの若者たちに訴えました。この言葉は日本語で「汝自身を知れ」。つまり「自分自身を知れ」という意味です。どれだけ自分を知っているのでしょうか・・・、深く考えたこともないし、むしろ何も知らないに等しいと気づくことが出発なのかもしれません。
2010/5/7
旅に出て、もしも自分よりすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道伴れにしてはならぬ。
“人生とは旅であり、旅とは人生である”とは元サッカー日本代表中田英寿選手の引退の時のことばである。その中で中田選手は「サッカーは本当に多くのものを授けてくれた。喜び、悲しみ、友、そして試練を与えてくれた。もちろん平穏で楽しいことだけだったわけではない。それ故に、与えられたことすべてが俺にとって素晴らしい“経験”となり、“糧”となり、自分を成長させてくれた。そして新たな旅立ちにあたりこれまで保ち続けてきた“誇り”が人生の基盤となり、自信になると思う」と語った。しかしこれが決して一人の力ではないと、自らの足下を看ることができれば、この先の新たな旅でどんな困難なことがあろうと乗り越えていける力になるであろう。
2010/4/23
栴檀、タガラ、青蓮華、ヴァッシキーー、これら香りのあるものどものうちでも、徳行の香りこそ最上である。
※その方のそばにいるだけで教訓めいた話を聞かなくても、黙ってその方のお顔を見ているだけで、さわやかな気分になり、暖かみを感じ、安らぎを覚えることがあります。
「ただいるだけで」と相田みつをさんは詠われています。
あなたがそこに ただいるだけで その場の空気が あかるくなる
あなたがそこに ただいるだけで みんなのこころが やすらぐ
そんなあなたに わたしもなりたい
2010/4/16
花の香りは風に逆らっては進んではいかない。栴檀もタガラの花もジャスミンもみなそうである。しかし徳のある人々の香りは、風に逆らっても進んで行く。徳のある人はすべての方向に薫る。
私も大好きだった『天才バカボン』の生みの親、赤塚不二夫さんの葬儀でタレントのタモリさんが弔辞を読まれました。その中の一部「・・・あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表していますすなわち『これでいいのだ!!』・・・」と。
2010/4/9
うるわしく、あでやかに咲く花で、しかも香りのあるものがあるように、善く説かれたことばも、それを実行する人には、実りが有る。
「この秋は雨か嵐かしらねども、今日のつとめの田草とるなり」 二宮尊徳さんは詠われています。秋の実りの頃の天候はわからない。もしかすると不順で不作になるかもしれない。しかし、そんなことを心配していてもはじまらない。やはり今日の目前のことを一つ一つつとめていくことが実りへとつながることを教えてくれます。
2010/4/2
他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったこととだけを見よ。
以前目にしたポスターに大きく映った耳の写真には心という字が添えてありました。耳+心。恥という字です。わが心の声を聞く。つまり、自分自身のいたらなさ、愚かさをしることで覚える恥ずかしさは私を謙虚にしてくれるはずです。
2010/3/26
この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないようなところへ行くであろう。
友松円諦さんは『般若心経講話』中で「物には正体もなく、実体もないというのです。無自性とか、無実体とか、乃至は「無体」と申しています。違った言葉で申しますと「勿体」となります。「無」も「勿」も同じ意味であることは、「勿論」と「無論」でおわかりと思います。「空」ということは「勿体」という言葉で表すと一番よく受け取れるのです」と説かれました。勿体ない存在であることに気づくときそのいのちをどう使っていきますか?
2010/3/19
母も父もそのほか親族がしてくれるよりもさらに優れたことを、正しく向けられた心がしてくれる。
特定の人にだけ注ぐ愛では小さいのです。すべてのものに対して自分のことのように広い心で愛することが最上なのでしょう。
2010/3/12
憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしようとも、邪なことをめざしている心はそれよりもひどいことをする。
私の心は何をめざしているの?私の心の鏡は正しくものを映しているのでしょうか?ここに器に入れた水があります。もし、その水が、濁っていたら、覗き込んでもありのままに見ることができない。また、その水を火にかけて沸騰させたらどうだろう。やはり、そこに顔を写してみることはできない。また、その水面が苔や草で覆われていたら、どうだろう。やはりいくらそこに顔を写そうとしても、ありにままの顔を写してみることはできないでしょう。私の心には何が映りますか?
2010/3/5
ああ、この身はまもなく地上によこたわるであろう、意識を失い、無用の木片のように、投げ棄てられた。
「一寸先は闇」。私たちの命は海の中に落ちている一本の針を拾うがごとき奇跡的に頂いたものと例えられた方がみえました。「使命」という言葉があるように、折角いただいた命ですからしっかりと使わせていただきましょう。あなたはどのように命を遣っていますか?
2010/2/26
心が煩悩に汚されることなく、おもいが乱れることなく、善悪のはからいを捨てて目ざめている人には、何も恐れることが無い。
お釈迦様の弟子シュリハンドクは物覚えが大変悪く、修行仲間からもさげすまれていました。ある時お釈迦さまに「こんな愚か者の私でも悟りを開くことはできるのでしょうか」と聞きました。それに対して「常に周囲の塵を払い、垢を除きなさい」と一本の箒を渡しました。その教えを守り毎日毎日実践しました。やがて煩悩によって乱れる心、あれこれと計らう心こそが塵であり、垢であると悟りました。シュリハンドクは一心不乱に掃除に取り組むとき、何にもおびえることがない自分を発見しました。
2010/2/19
心は、極めて見難く、極めて微妙であり、欲するがままにおもむく。英知ある人は心を守れかし。心を守ったならば、安楽をもたらす。
安楽=心が安らかなこと。欲するままに動けたらどんなにか気持ちがよいことでしょうね。しかし、求めたことが得られない時どうでしょうか?苦しいですよね。心を落ち着けて調えられれば素直に今が受け入れられるはずです。呼吸が浅くなっていませんか?大きく気持ちのよい深呼吸してみましょう。
2010/2/12
心は、捉え難く、軽々とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。
貪るこころは“ないないない”と満足を知らず、欲はとどまることを知りません。欲しいのに得られない、常に求める心は苦しくてしょうがありません。ほんとうにそれは必要なの?自分に問いかけてみましょう。
2010/2/5
心は、動揺し、ざわめき、守り難く、制し難い。英知ある人はこれを直(なおう)くする。―弓矢職人が矢柄を直くするように。
矢がまっすぐ飛ぶために矢柄をまっすぐにすることが大切です。まっすぐに調えるためにはくりかえしくりかえし手をかける必要があります。揺らぎざわめく心を調えるためには生活に戒めを持つことが大切なのでしょう。そうそう玄関の履物が脱ぎっぱなしになって乱れていませんか?
2010/1/29
いそしむことを楽しみ、放逸におそれをいだく修行僧は、堕落するはずはなく、すでにニルヴァーナの近くにいる。
日々これ修行。昨年も二百本安打を決めたメジャーリーグで活躍するイチロー選手。その大記録を打ち立てるスタートは一本から。その一本もまた日々の練習の積み重ね、そして何より必ず練習や試合の後の自分のグローブなどの道具の手入れをすることを欠かしません。出発は小さなことかもしれません。自分の生活の助けとなる様々な道具を大切に扱うことから始めてみませんか。
2010/1/22
智慧乏しき愚かな人々は放逸にふける。しかし心ある人は、最上の財宝をまもるように、つとめはげむのをまもる。
修行時代のことです。師匠に「ついつい怠け心が出てしまう自分が、情けない」と言ったことがあります。その時師匠はこう言ってくれました。「その心が自灯明だ」自分で自分を戒める心。少しでも向上したいと願う心。それこそが、自分を暗闇から明るい方向へと導いてくれるものだと言ってくれたのだと思います。この世のどんな宝物にも勝るもの。それは、自分がよりよく生きたいという向上心なのでしょうか。今日も一日、お疲れ様でした。肩の力を抜き、癒しの坐禅をしましょう。
2010/1/15
思慮ある人は、奮い立ち、努めはげみ、自制・克己によって、激流もおし流すことのできない島をつくれ。
島は川の中州。向こうの岸に一度に泳ぎきることができない時に助けとなる場所。人生は苦難の連続。その時助けとなる場所は自分が一つ一つ乗り越えてきた過去と目指す未来。ときには先達が作った島で休ませてもらうこともありですよね。
2010/1/8
こころはふるい立ち、思いつつましく、行ないは清く、気をつけて行動し、みずから制し、法にしたがって生き、つとめはげむ人は、名声が高まる。
この中で全部とは言いませんが、一つでも多く実践したいもんですね。元気、謙虚、清潔、思慮深く、理性的で、筋が通っていて、それらをいつも心に留めている人。いつもできているか?と聞かれれば、どれもできてないですね・・・反省。でもこれを見てみると共通していることがあります。心にわだかまりがなく、落ち着いているってことですよ。早い話が、心にわだかまりがなく落ち着いていればよい!さて、今夜も一日のわだかまりを捨てて、感謝の気持ちで坐りましょう。
2010/1/1 元旦
道に思いをこらし、堪え忍ぶことつよく、つねに健(たけ)く奮励する、思慮ある人々は、安らぎに達する。これは無上の幸せである。
「潜行密用愚の如く魯の如し」。人知れずただひたすらに行うことは、他人から見れば愚かなことかもしれません。しかし、挫けてはいけません。自分の信じた道に向かって進みましょう。歩みは遅くてもいいじゃないですか。