東京禅センターモバイル

Night-stand Buddhists ナイトスタンド・ブディスト
仏教徒ではなく、しかし仏教には興味を持っている人々がブッダの教えにふれ、独りしずかに自らを考える人。

概要:毎週お話を更新、瞑想や坐禅、また小さな読み物としてどうぞ参考にしてください。監修は佐々木先生。底本は岩波文庫『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳より

2010/6/25

真理を喜ぶ人は、心清らかに澄んで、安らかに臥す。聖者の説きたまうた真理を、賢者はつねに楽しむ。
子どもの頃聞いたある漫才師の「地下鉄をどこから入れたか考えると寝られなくなっちゃう」・・・安らかに眠ることのできる幸せ。当たり前に思うけれど不眠症で悩む方は多いようです。何も考えずに寝よう寝ようとすればかえって目がさえてしまう。そんな時は姿勢を少し正して大きく呼吸をして坐禅をしてみましょう。

2010/6/18

悪い友と交わるな。卑しい友と交わるな。
善い友と交われ。尊い友と交われ。
「友」という字を眺めているとその中に「人」という字を発見した。その時思い出したのが、作家司馬遼太郎さんの書かれた「21世紀に生きる君たちへ」の中でのフレーズ。【人間は、助け合って生きているのである。私は人という字を見るとき、しばしば感動する。ななめの画が、たがいに支え合って、構成されているのである】。この支えがあってしっかりと立っていることができる。

2010/6/11

「これは、わたしのしたことである。在家の人々も出家した修行者たちも、ともにこのことを知れよ。およそなすべきこととなすべからざることとについては、私の意に従え」愚かな者はこのように思う。こうして欲求と高慢とがたかまる。
禅林寺永観堂の見返り阿弥陀如来の由来には諸説ある。浄土に往生する人々を浄土に連れ帰るとき、後方に向かって振り返った阿弥陀像であるという見方もあるという。 見返りとは一段高く構えて待ち構えるのとは違って同じ方向に向かっている姿であり、絶えずこちらを気にしていてくれる姿に親しみを感じるのである。

2010/6/4

愚かな者は、悪いことを行っても、その報いの現れないあいだは、それを蜜のように思いなす。しかしその罪の報いの現れたときには、苦悩を受ける。
そのめざしている幸せは本当の幸せなの?昔は幸せを「仕合わせ」と書いたとも聞きました。人と人との間に生まれる喜びをあらわしたのでしょう。今感じている幸せは自分だけの身勝手になっていませんか?

2010/5/28

もしもある行為をしたのちに、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。
私たちは誰もが過ちを犯す。よくないと認めた上でどう出発するのかが大切なのである。

2010/5/21

もしも愚者が自ら愚者であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながらしかも自ら賢者と思う者こそ、「愚者」だと言われる。
以前、私が目にした一枚のポスター。真中に大きな耳の写真がありその右に少し小さめの心という字が書いてある。「耳と心」。そう!「恥」です。このポスターからは自分自身に向って心の声を聞き、自分自身のいたらなさ、愚かさを知ることで覚える恥ずかしさは、自分自身を謙虚にしてくれるのでしょう。

2010/5/14

「わたしには子がある。わたしには財がある。」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。
古代ギリシャの哲学者ソクラテスは「GNOTHI SEAUTON」とアテネの若者たちに訴えました。この言葉は日本語で「汝自身を知れ」。つまり「自分自身を知れ」という意味です。どれだけ自分を知っているのでしょうか・・・、深く考えたこともないし、むしろ何も知らないに等しいと気づくことが出発なのかもしれません。

2010/5/7

旅に出て、もしも自分よりすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道伴れにしてはならぬ。
“人生とは旅であり、旅とは人生である”とは元サッカー日本代表中田英寿選手の引退の時のことばである。その中で中田選手は「サッカーは本当に多くのものを授けてくれた。喜び、悲しみ、友、そして試練を与えてくれた。もちろん平穏で楽しいことだけだったわけではない。それ故に、与えられたことすべてが俺にとって素晴らしい“経験”となり、“糧”となり、自分を成長させてくれた。そして新たな旅立ちにあたりこれまで保ち続けてきた“誇り”が人生の基盤となり、自信になると思う」と語った。しかしこれが決して一人の力ではないと、自らの足下を看ることができれば、この先の新たな旅でどんな困難なことがあろうと乗り越えていける力になるであろう。

2010/4/23

栴檀、タガラ、青蓮華、ヴァッシキーー、これら香りのあるものどものうちでも、徳行の香りこそ最上である。
※その方のそばにいるだけで教訓めいた話を聞かなくても、黙ってその方のお顔を見ているだけで、さわやかな気分になり、暖かみを感じ、安らぎを覚えることがあります。 「ただいるだけで」と相田みつをさんは詠われています。
あなたがそこに  ただいるだけで  その場の空気が  あかるくなる
あなたがそこに  ただいるだけで  みんなのこころが  やすらぐ
そんなあなたに  わたしもなりたい

2010/4/16

花の香りは風に逆らっては進んではいかない。栴檀もタガラの花もジャスミンもみなそうである。しかし徳のある人々の香りは、風に逆らっても進んで行く。徳のある人はすべての方向に薫る。
私も大好きだった『天才バカボン』の生みの親、赤塚不二夫さんの葬儀でタレントのタモリさんが弔辞を読まれました。その中の一部「・・・あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表していますすなわち『これでいいのだ!!』・・・」と。

2010/4/9

うるわしく、あでやかに咲く花で、しかも香りのあるものがあるように、善く説かれたことばも、それを実行する人には、実りが有る。
「この秋は雨か嵐かしらねども、今日のつとめの田草とるなり」 二宮尊徳さんは詠われています。秋の実りの頃の天候はわからない。もしかすると不順で不作になるかもしれない。しかし、そんなことを心配していてもはじまらない。やはり今日の目前のことを一つ一つつとめていくことが実りへとつながることを教えてくれます。

2010/4/2

他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったこととだけを見よ。
以前目にしたポスターに大きく映った耳の写真には心という字が添えてありました。耳+心。恥という字です。わが心の声を聞く。つまり、自分自身のいたらなさ、愚かさをしることで覚える恥ずかしさは私を謙虚にしてくれるはずです。

2010/3/26

この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないようなところへ行くであろう。
友松円諦さんは『般若心経講話』中で「物には正体もなく、実体もないというのです。無自性とか、無実体とか、乃至は「無体」と申しています。違った言葉で申しますと「勿体」となります。「無」も「勿」も同じ意味であることは、「勿論」と「無論」でおわかりと思います。「空」ということは「勿体」という言葉で表すと一番よく受け取れるのです」と説かれました。勿体ない存在であることに気づくときそのいのちをどう使っていきますか?

2010/3/19

母も父もそのほか親族がしてくれるよりもさらに優れたことを、正しく向けられた心がしてくれる。
特定の人にだけ注ぐ愛では小さいのです。すべてのものに対して自分のことのように広い心で愛することが最上なのでしょう。

2010/3/12

憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしようとも、邪なことをめざしている心はそれよりもひどいことをする。
私の心は何をめざしているの?私の心の鏡は正しくものを映しているのでしょうか?ここに器に入れた水があります。もし、その水が、濁っていたら、覗き込んでもありのままに見ることができない。また、その水を火にかけて沸騰させたらどうだろう。やはり、そこに顔を写してみることはできない。また、その水面が苔や草で覆われていたら、どうだろう。やはりいくらそこに顔を写そうとしても、ありにままの顔を写してみることはできないでしょう。私の心には何が映りますか?

2010/3/5

ああ、この身はまもなく地上によこたわるであろう、意識を失い、無用の木片のように、投げ棄てられた。
「一寸先は闇」。私たちの命は海の中に落ちている一本の針を拾うがごとき奇跡的に頂いたものと例えられた方がみえました。「使命」という言葉があるように、折角いただいた命ですからしっかりと使わせていただきましょう。あなたはどのように命を遣っていますか?

2010/2/26

心が煩悩に汚されることなく、おもいが乱れることなく、善悪のはからいを捨てて目ざめている人には、何も恐れることが無い。
お釈迦様の弟子シュリハンドクは物覚えが大変悪く、修行仲間からもさげすまれていました。ある時お釈迦さまに「こんな愚か者の私でも悟りを開くことはできるのでしょうか」と聞きました。それに対して「常に周囲の塵を払い、垢を除きなさい」と一本の箒を渡しました。その教えを守り毎日毎日実践しました。やがて煩悩によって乱れる心、あれこれと計らう心こそが塵であり、垢であると悟りました。シュリハンドクは一心不乱に掃除に取り組むとき、何にもおびえることがない自分を発見しました。

2010/2/19

心は、極めて見難く、極めて微妙であり、欲するがままにおもむく。英知ある人は心を守れかし。心を守ったならば、安楽をもたらす。
安楽=心が安らかなこと。欲するままに動けたらどんなにか気持ちがよいことでしょうね。しかし、求めたことが得られない時どうでしょうか?苦しいですよね。心を落ち着けて調えられれば素直に今が受け入れられるはずです。呼吸が浅くなっていませんか?大きく気持ちのよい深呼吸してみましょう。

2010/2/12

心は、捉え難く、軽々とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。
貪るこころは“ないないない”と満足を知らず、欲はとどまることを知りません。欲しいのに得られない、常に求める心は苦しくてしょうがありません。ほんとうにそれは必要なの?自分に問いかけてみましょう。

2010/2/5

心は、動揺し、ざわめき、守り難く、制し難い。英知ある人はこれを直(なおう)くする。―弓矢職人が矢柄を直くするように。
矢がまっすぐ飛ぶために矢柄をまっすぐにすることが大切です。まっすぐに調えるためにはくりかえしくりかえし手をかける必要があります。揺らぎざわめく心を調えるためには生活に戒めを持つことが大切なのでしょう。そうそう玄関の履物が脱ぎっぱなしになって乱れていませんか?

2010/1/29

いそしむことを楽しみ、放逸におそれをいだく修行僧は、堕落するはずはなく、すでにニルヴァーナの近くにいる。
日々これ修行。昨年も二百本安打を決めたメジャーリーグで活躍するイチロー選手。その大記録を打ち立てるスタートは一本から。その一本もまた日々の練習の積み重ね、そして何より必ず練習や試合の後の自分のグローブなどの道具の手入れをすることを欠かしません。出発は小さなことかもしれません。自分の生活の助けとなる様々な道具を大切に扱うことから始めてみませんか。

2010/1/22

智慧乏しき愚かな人々は放逸にふける。しかし心ある人は、最上の財宝をまもるように、つとめはげむのをまもる。
修行時代のことです。師匠に「ついつい怠け心が出てしまう自分が、情けない」と言ったことがあります。その時師匠はこう言ってくれました。「その心が自灯明だ」自分で自分を戒める心。少しでも向上したいと願う心。それこそが、自分を暗闇から明るい方向へと導いてくれるものだと言ってくれたのだと思います。この世のどんな宝物にも勝るもの。それは、自分がよりよく生きたいという向上心なのでしょうか。今日も一日、お疲れ様でした。肩の力を抜き、癒しの坐禅をしましょう。

2010/1/15

思慮ある人は、奮い立ち、努めはげみ、自制・克己によって、激流もおし流すことのできない島をつくれ。
島は川の中州。向こうの岸に一度に泳ぎきることができない時に助けとなる場所。人生は苦難の連続。その時助けとなる場所は自分が一つ一つ乗り越えてきた過去と目指す未来。ときには先達が作った島で休ませてもらうこともありですよね。

2010/1/8

こころはふるい立ち、思いつつましく、行ないは清く、気をつけて行動し、みずから制し、法にしたがって生き、つとめはげむ人は、名声が高まる。
この中で全部とは言いませんが、一つでも多く実践したいもんですね。元気、謙虚、清潔、思慮深く、理性的で、筋が通っていて、それらをいつも心に留めている人。いつもできているか?と聞かれれば、どれもできてないですね・・・反省。でもこれを見てみると共通していることがあります。心にわだかまりがなく、落ち着いているってことですよ。早い話が、心にわだかまりがなく落ち着いていればよい!さて、今夜も一日のわだかまりを捨てて、感謝の気持ちで坐りましょう。

2010/1/1 元旦

道に思いをこらし、堪え忍ぶことつよく、つねに健(たけ)く奮励する、思慮ある人々は、安らぎに達する。これは無上の幸せである。
「潜行密用愚の如く魯の如し」。人知れずただひたすらに行うことは、他人から見れば愚かなことかもしれません。しかし、挫けてはいけません。自分の信じた道に向かって進みましょう。歩みは遅くてもいいじゃないですか。

7月〜 過去のつぶやき

関連ページ

スケジュールカレンダー

21年度公開講座

メニュー

お問合せ(メール)

↑このページTOP

サイトのTOPへ

©tokyo-zen-center. Allrights reserved